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小倉城下町の発展

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小倉城下町は、細川忠興が本格的に築城と町割りを実施してその基礎が築かれた。細川氏が肥後に転封になったため、城下町として発展するのはもちろん小笠原氏時代になってからである(以下、『わが町の歴史 小倉』一一八ページ以降を参照)。特に、東曲輪が城下町として発展をした。元禄十二年(一六九九)には、東西小倉の町屋敷は三〇〇〇戸に達している。「大商家二六戸・上商人二五七戸・出商人一三三〇戸・諸職人一二〇戸・馬方人足一三七戸・船乗一四〇戸・雑業三八五戸・諸芸人八二戸」を数えている。次の表(第25表)をみると分るように、戸数の上から急速に発展しているのは、むしろ東曲輪の方である。
第25表 町屋数と人数
時期西曲輪東曲輪
元禄12年(1699)戸数3000戸、大商家26戸、上商人257戸、出商人1330戸、諸職人120戸、馬方人足137戸、船乗140戸、雑業385戸、諸芸人82戸
宝永5年(1708)873戸
4500人
1924戸
13565人
延享3年(1746)763戸2168戸
9621人
文政8年(1825)808戸
2755人
1327戸
4688人
弘化2年(1845)1040戸
3614人
1595戸
6777人
(『わが町の歴史 小倉』131ページ)

 次に武家屋敷の状態はどうなっているかというと、細川藩時代同様に小笠原藩も、城の最近辺の周辺地域に、上級家臣を配置した。すなわち、二の丸の内北側に、知行一〇〇〇石以上の大身(家老クラス)の屋敷が五軒ある。その大きさは、表三〇~四〇間(五四~七二メートル)・奥行き三〇~四六間(五四~八二・八メートル)の大邸宅である。
 そして、「西南東と本丸を囲む三方には、御用屋敷・西ノ口上(あが)り屋敷・御花畑・新馬場・役者屋敷・御下屋敷・大守(たいしゅ)下屋敷・御下台所・御勘定所などの藩主屋敷や役所が置かれている。二ノ丸北側で西曲輪室町とのあいだには、国次役所や御評定所があり、東側の紫川に面して御蔵・代米御蔵、その南側には御普請所がある。郡方(こおりかた)の役所としては、西曲輪南方の篠崎口辺に御郡代(ぐんだい)役宅・御郡方作事(さくじ)・御郡方御用屋敷」(前『同書』一三三―三四ページ)が集まっている。また、延享三年(一七四六)の記録(「巡見上使返答書覚」)では、武家屋敷の数は、先述の二の丸の大身五軒のほか、三の丸(三の曲輪)に四四軒、東小倉七七〇軒・西小倉八〇一軒の合計一六二〇軒となっている。
 次に二つ図を掲載したので、参照のこと(第10図、第11図)。慶応二年(一八六六)の幕長戦争時の小倉城下町ものであるので貴重である。
 

第10図 慶応2年(1866)小倉御城下絵図(写真) (永青文庫蔵)


第11図 慶応2年(1866)の小倉城下復原図 (永青文庫蔵)