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鎖国への途

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関ヶ原の戦で勝利を収めた家康は慶長六年(一六〇一)ルソン(フィリピン)・安南(あんなん)(ベトナム)・シャム(タイ)など、東南諸国に書簡を送り、家康の朱印状を持った日本船との貿易を保護するよう要請した。同九年には江戸幕府は朱印船制度を制定し、朱印状を発給して、貿易の保護と統制を図った。こうして朱印船が活躍するのは、慶長九年から寛永十二年(一六三五)に鎖国令が発せられるまでの約三〇年間で、朱印状が与えられたのは、京・大坂・堺・長崎・平戸の豪商や、九州の諸大名らであった。
 家康は当初、貿易重視の外交方針を堅持し、貿易船とともに宣教師の渡来と布教を黙認したところ、キリシタンは全国に広まった。キリシタンの波及に不安を感じた家康は、幕府の禁教政策の徹底化、幕府による貿易統制の強化をおもな理由に、鎖国への途を推し進めることになった。
 元和二年(一六一六)には、外国との貿易地を長崎・平戸の二港に制限し、他地域の貿易や外国人の居住を禁じた。平戸のオランダ商館は、のちに寛永十八年(一六四一)には長崎の出島に移し、以後長崎一港だけで、幕府の統制下で外国貿易を許した。寛永八年(一六三一)からは、海外渡航に朱印状のほか、老中奉書が必要となった。同十年には、鎖国の方針が発せられた。奉書船のほか、日本人の海外渡航をいっさい禁止し、海外に居住する日本人については、渡航後五年以内の者を除いて、いっさい帰国を禁止した。
 寛永十二年(一六三五)には、いよいよ本格的な鎖国令が発せられ、朱印船貿易が全面的に禁止された。鎖国令は一七条からなり、その第一条から第三条は、日本人の海外渡航と帰国を禁止したもので、第四条から第八条は、キリシタンの禁制である。ほかの条は、取引を規定したものである。朱印船貿易の禁止とキリシタンの禁制は、朱印船貿易で富を得ていた大名にとっては、藩の財政面から過重な年貢増徴となってはね返り、キリシタンへの厳しい弾圧となって、人々を苦しめた。島原藩主松倉重政もその例外ではなかった。鎖国の二年後には、島原の乱が勃発するのである。