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島原のキリシタン一揆

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寛永十四年(一六三七)に、島原・天草の乱が起こった。島原の乱について、事件が勃発して日が浅い十一月二十五日付の『クーケバックルの書簡』によると、「新来の領主は(中略)農夫たちの上にも、ますます重い租税を課し、到底その負担に堪えられない程多額の米を差し出すように、強いたのである。(中略)有馬のキリスト教徒が、農民の仲間に加わった。農民たちは親しくこれを迎えた。(中略)彼らに加担する人数は日を追って増えていった。そして今は農民とキリスト教徒の数は、一八〇〇程に及んでいる」と、報告している。
 これによると、乱の発端は、領主の苛政(かせい)に耐えかねた農民が初めに立ち上がり、それにキリシタンが加わって、乱は日増しに大きくなり、一揆側の人数は三万七〇〇〇余人にもなり、減税と信仰の自由を要求して、島原の原城に立て籠もった。一揆は、翌年二月二十八日に終息したが、幕府はこの一揆を、農民の多くがキリシタンであったことから、「キリシタン一揆」と決めつけた。乱ののち、これを契機に、幕府のキリシタン禁圧は、一層徹底していった。