幕府は、宗門改めに当たって、キリシタンの中心地である九州地方の諸藩に、キリシタン摘発のために、キリスト像やマリア像を踏ませる「絵踏(えぶみ)制度」を設け、また、すべての住人を檀那寺(だんなでら)の統制下に置く「寺請(てらうけ)制度」を設けた。
宗門改めは、元来キリシタン摘発を趣旨とするもので、宗門改めの初期は、キリシタン排除的色彩の濃厚な改めであった。しかし、キリシタン類族の減退する元禄年間(一六八八―一七〇四)ごろからは、宗門改めは、住民支配の幕藩体制の要となって、支配体制の、人民統制の中心をなす制度へと変化していった。
幕府が禁教をしていた宗教には、キリスト教のほかに、不受不施(ふじゅふせ)と悲田宗(ひでんしゅう)がある。不受不施は、法華を信じない者からは施しを受けず、また施さないと主唱する日蓮宗の一派である。悲田宗は、不受不施派の一派ともいえるが、不受不施派が、法華の信者でない者からは、施しは受けられないとするのに対して、悲田宗は、悲田供養として受けるならば、日蓮の祖制に背かないと主唱した。
禁教の切支丹・不受不施・悲田宗を記した往来証文
(「国作手永大庄屋日記」より)
これらキリスト教・不受不施・悲田宗の教えは、爲政者にとっては、人民を支配していく上で、受け入れ難い相反する教えであった。幕府は、これらの宗教を邪宗として禁制したのであった。