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宗門改役の設置

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寛永十七年(一六四〇)には、幕府は直轄領に宗門改役を設置して、キリシタンには転宗を強制し、従わないキリシタンには死罪を科し、キリシタンの摘発と弾圧を強化した。寛文四年(一六六四)には、私領(大名領)にも宗門改役の設置と、毎年強制的に、一五歳以上六〇歳までの男子の宗門改めを実施することを命じた。キリシタンは、その子孫の「男生の方は、本人より七世の孫まで類族にて、八代目より素人(そにん)になる。女生の方は、曽孫まで四代にて類族切れ、五代目より素人になる」(『地方凡例録』巻三八)と定められている。
 幕府は、宗門改めに当たって、キリシタンの中心地である九州地方の諸藩に、キリシタン摘発のために、キリスト像やマリア像を踏ませる「絵踏(えぶみ)制度」を設け、また、すべての住人を檀那寺(だんなでら)の統制下に置く「寺請(てらうけ)制度」を設けた。
 宗門改めは、元来キリシタン摘発を趣旨とするもので、宗門改めの初期は、キリシタン排除的色彩の濃厚な改めであった。しかし、キリシタン類族の減退する元禄年間(一六八八―一七〇四)ごろからは、宗門改めは、住民支配の幕藩体制の要となって、支配体制の、人民統制の中心をなす制度へと変化していった。
 幕府が禁教をしていた宗教には、キリスト教のほかに、不受不施(ふじゅふせ)と悲田宗(ひでんしゅう)がある。不受不施は、法華を信じない者からは施しを受けず、また施さないと主唱する日蓮宗の一派である。悲田宗は、不受不施派の一派ともいえるが、不受不施派が、法華の信者でない者からは、施しは受けられないとするのに対して、悲田宗は、悲田供養として受けるならば、日蓮の祖制に背かないと主唱した。
 

禁教の切支丹・不受不施・悲田宗を記した往来証文
(「国作手永大庄屋日記」より)

 これらキリスト教・不受不施・悲田宗の教えは、爲政者にとっては、人民を支配していく上で、受け入れ難い相反する教えであった。幕府は、これらの宗教を邪宗として禁制したのであった。