小倉藩は、像のあるを幸に、誓証文や血判のごとき面倒くさき手数を省き、毎年三月、藩士ならびに、城
下小倉町を始めとし、企救郡は三月三日大里町西生寺に、宗旨奉行はキリシタンの像を護り出張す。郡方
役人・筋奉行・代官・山奉行・大庄屋・各奉行手代・子供役・村役人・庄屋・方頭・各宗寺院の住職僧侶
出席立会し、十五歳以上六十歳までの男子は、受け持ち村の庄屋の呼び出しに応じ、前に進み、土中に伏
せた像の上に、両足を揃え立って、向こうへ通過す。宗旨奉行は手代に命じ、庄屋の呼び出した人名を宗
旨帳と照合し、なお、檀那寺の住職に捺印なさしむ。こうして、宗旨奉行は領内を巡廻し、一郡一か所、
既定の場所において、宗門改め像踏みを執行するのが藩の規定なり。
初期の宗門改めの場所は、家中は大隆寺・宗玄寺・峰高寺の三カ寺が順番であったが、正徳五年(一七一五)から、三カ寺の順番制を廃して、長福寺を定め場所とした。のちに、享保十六年(一七三一)からは、会所で行うようになった(『『福岡県史』第三巻下冊)。また、在方(ざいかた)(農村)・町人は『鵜之真似』に「郡代役宅にありし由、遠郡百姓は三、四日もかかり候に付、宗旨奉行が廻郡して、その郡にて改むるようになり、町人は、町奉行宅にてある由、今は寺にて改めあり」(『小倉市誌補遺』)と、小倉藩の宗門改めの変遷を記してある(第12図参照)。
第12図 八屋(現豊前市)賢明寺で実施の宗門改めの絵図
(『豊前市史』上巻から)
また、天保九年(一八三八)に、巡見使の質問に答えるために作成された「御巡見方御尋之節御答覚書」(永沼文書)の宗門改めの条には、次のように小倉藩の宗門改めを記してある。
毎年一度ずつ、郡中の男女残らず帳面に仕立、郡奉行並びに、手代・大庄屋・小庄屋出合い、宗門奉行・
横目衆郡々え申し請け、檀那寺ことごとく罷出、右の帳面を以って、男の分は一人ずつ罷出判を居、切支
丹の像を踏み申し候、当年も相済み候はば、相済み申し候段申し上ぐべき候、そのほか、大庄屋もとえ
村々の者召集め、御公義様よりの切支丹御法度の趣申し聞かせ、書物判形仕り、宗門奉行へ証文毎月廿九
日限り差し出し申し候、また、若き者、老人共に残らず像を踏み候やと、御尋なられ候はば、拾五歳以
下、または歩行困難の者は、御赦免なられ候と申し上ぐべき事