小倉領六郡を廻郡して、宗門改め像踏みに立ち会った役人の一行は、宗旨奉行・中目付・中役(役所・添役・宗旨手代)・下目付・郡目付、そのほか手付など、一七人前後で、改めは一郡一カ所で行われ、午前十時ごろから午後二時ごろまで、一日で済ませた。
天保十年(一八三九)の宗門改めの一行は、宗旨奉行・横川佐野右衛門、中目付・上原庄之助、中役・茂田平蔵・川嶋再助、下目付・笠井九右衛門・平尾栄助、郡目付・後藤判平・小森瀬助など二三人で廻郡している。
廻郡の順路は、企救郡を振り出しに、田川郡→築城郡→上毛郡→仲津郡→京都郡→小倉に引き取り、と決まっていたが、慶応二年(一八六六)は、田川郡→築城郡→上毛郡→仲津郡→京都郡→企救郡、明治元年(一八六八)、企救郡が長州藩預けとなって、田川郡→上毛郡→築城郡→仲津郡→京都郡、明治三年は、上毛郡→築城郡→仲津郡→京都郡→田川郡、同四年は、田川郡→京都郡→仲津郡→築城郡→上毛郡と、幕末から明治にかけての動乱期には、順路は一定しなかった。