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仲津郡の宗門改めの場所

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一郡一カ所で行われる宗門改めは、仲津郡では「長井手永大庄屋日記」文化元年(一八〇四)七月二十五日の条に「宗門御改め、国分寺において、今日八ツ時(午後二時)迄に相済、直様宗旨方行司に御引き移り」また、「国作手永大庄屋日記」(行橋市歴史資料館所蔵)の文化十三年閏八月二日の条に「宗門御改め、国分寺にて相済」とあり、仲津郡の宗門改めは、国分寺(豊津町)で実施していたことが判明する。その後、文政二年(一八一九)二月に、筋奉行・井上与三左衛門から、仲津郡の大庄屋、子供役あてに「仲津郡御改めは、当春より以来は大橋村(現行橋市)ばかりにて、御改め受け申すべき候、国分村は諸事夫遣い多く、そのうえ、出米入目も多、旁もって大橋にいたし候、この旨左様相心得られるべき候」大橋にいたし候、この旨左様相心得られるべき候」(「国作手永大庄屋日記」)と、仲津郡の宗門改めの場所が、この年から、国分村(現豊津町)の国分寺から、大橋村の禅興寺に変更された。
 しかし、宗門改めには多額の出費を要し、大橋の禅興寺は、内陸部から遠く隔てて不便なことから、仲津郡の大庄屋が連名で、禅興寺と国分寺の隔年ごとの実施を申し入れた。これに対し、天保十四年(一八四三)筋奉行・西正左衛門から「宗門御改め場所、国分寺においてこれあり候様、連名を以って願い出られの通り、申し付け候、当年国分寺、明年禅興寺、隔年に申し付け候間、この旨相心得らるべき候」(「長井手永大庄屋日記」)と、天保十四年から、国分寺と禅興寺で、交互に隔年ごとに実施されることになった(第13・14図参照)。
 

第13図 国分寺


第14図 禅興寺
仲津郡で隔年ごとに宗門改めの行われた国分寺(豊津町)と禅興寺(行橋市)