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宗門改めの簡略化

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江戸時代の中期以降になると、一般民衆はキリシタンに無関心になって、宗門改めの本来の趣旨からは、ほとんど無意味になったこの制度を毎年行うのは、庶民から見れば、時間と経費の浪費である。嘉永七年(安政元年=一八五四)四月には、六郡大庄屋連名で「宗門御改めの儀は、五年目に一度か、子(ね)・午(うま)の両年に仰せ付けられ度」(「国作手永大庄屋日記」)と、役人出張の人足賃、賄いなどの郡出しの出費、そのうえ、踏み絵のために、百姓は一日を費やすなど浪費が多く、五年に一度か、人別改めの実施される子年と午年の六年に一度実施するよう役所へ伺いを立てた。
 同年五月一日には、家老・島村志津摩と、郡代・河野四郎の諸事改革に際し「このたび、諸事御取り締まり仰せ出され、かつ、御爲筋に相成る儀申し出るよう」(「国作手永大庄屋日記」)と、藩は広く領民の声を藩政に取り入れることになった。これを受けて、六郡大庄屋は連名で、先の宗門改めの五年に一度か、六年に一度実施の要望を「三年に一度仰せ付けられたく」(『福岡県史』第三巻下冊)と、宗門改めに費やす出費節減の目的で、三年に一度の実施を要望したが、実現しなかった。
 宗門改めは、本来のキリシタン摘発は形式化して、無意味となった制度ではあったが、支配者にとっては別の重要性があった。「毎年宗門改めに集り候時分、御高札の趣、読み聞かせ候」(上使   永井文書)と、字の読めない百姓に、法令を読んで聞かせ、それを順守徹底させるのに、宗門改めは、重要な伝達の場であるとともに、幕藩体制において、住民統制のうえからも、宗門改めは欠かせない制度であった。しかし、翌安政二年からは、形式化した宗門改めは、庶民の簡略化の要望もあって、宗旨奉行・中目付の廻郡は止め、宗旨手代・郡目付だけの立ち会いとなった。
 慶応四年(明治元年=一八六八)三月には、藩政改革が行われて、郡代・代官・山奉行・検見定役・郡土蔵役などの職種を廃止したのに伴って、宗旨方役人・同手代・同手代加勢・下目付など六人で廻郡した。明治四年(一八七一)には、寺社掛・同付属・監察課付属・民事課中卒など、五人の小規模な改めになった。