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幕末のキリシタン検挙事件

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キリシタン弾圧の中で、ひそかにその信仰を続けていた浦上村(現長崎市)の隠れキリシタンは、その信仰を疑われ、検挙される事件が四回あった。最初は寛政二年(一七九〇)、二回目は天保十三年(一八四二)、三回目は安政三年(一八五六)、四回目は慶応元年(一八六五)で、この検挙事件を浦上崩(うらがみくずれ)といった。中でも浦上四番崩は、浦上村の一村全員が総流罪となる事件であった。五島(現長崎県)でもキリシタン検挙事件があり、五島崩といった。この事件で検挙されたキリシタンは、およそ四〇〇〇人を数えた。しかし、外国からのキリシタン弾圧、信仰の自由の抗議を受けて、その処置に苦慮した明治新政府は、明治元年(一八六八)から同二年にかけて、西日本の三四藩に配流した。
 小倉藩も配流のキリシタンを預かったのであろう「長井手永大庄屋日記」慶応四年(明治元年)五月の条に「御所置御決定遊ばされ候、これにより、別紙の通り御預ケ仰せ付けられ候事」として、配流先でのキリシタンの取り扱いを次のように記してある。
 
  一右宗門元来御国禁、不容易事に付き、御預りの上は人事を尽し、懇切に教諭いたし、良民に立ち戻り候
   様、厚く取り扱うべき候、もし、悔悟仕まつらず者は、やむを得ず厳刑に処せらるべく候間、此旨相心
   得、改心の目途相立ざる者は届出るべき事
  一改心の廉相立て候迄は、住人とはきっと絶交の事
  一開発地土工、金工、あるいは石炭掘とも水夫役など、勝手に召仕べき事
  一山村に住居致さすべき事
  一当日より先三ケ年の間、壱人に付き壱人扶持ずつ、その藩々へ下され候事
      但、長崎表より追々差し送り候間、支度次第早々到着所へ、その藩より人数差し向け、受け取り
      申すべき事
   外略ス
         小――五拾人
         御預ケ三拾四家、人数凡四千人
 
 小倉藩は、五〇人のキリシタンを預かったのであろう。翌明治二年十二月十八日には、長崎県から「この度切支丹宗徒御処分仰せ出され、当県支配浦上村の者ども、藩々へ差し送り申し候」と、香春藩(旧小倉藩)にも通達が来ている。香春藩へ送られてきたのであろう、五〇人のキリシタンの追跡は、現時点ではその確認が出来ない。
 明治新政府は、こうしたキリシタンの復興を、仏教の力で抑えようと図った。明治元年十月には、京都本山学林に居た長久寺(中津市)の性叡は、教諭講釈を新政府から命じられて、全国を巡回した。香春藩では一郡一カ寺で教諭し、仲津郡では、大橋村の浄蓮寺で教諭した。しかし、外国からの信仰の自由の非難を浴びて、明治六年には、キリシタン禁制が解かれ、宗門改めの制度は廃止された。