寛永六年(一六二九)ごろから、キリシタンの中心地である長崎で、キリシタン信者を摘発するために、キリストやマリアの絵像を踏ませて、その態度や顔色を見て、信者か否かを判別していたキリシタン摘発の方法を、制度化したのが絵踏制度である。この絵踏制度は、江戸切支丹屋敷や、キリシタンの多かった九州地方の諸藩で行われ、これが宗門改めの中に組み入れられて、宗門改めと踏み絵は密接な関係を持つに至った。
踏み絵の当初は、紙に画(か)いた聖像の絵や、単に十字架の印(しるし)が用いられたり、信者から没収した「ごえい」や「くるす」などの信仰道具だったりしたが、幕府は、寛文九年(一六六九)に、長崎の鋳物師・祐佐に命じて作らせたと伝えられる真鍮製の絵像を「踏み絵」といった。この踏み絵を長崎奉行が二〇枚保管して、島原・平戸・大村・竹田・臼杵・府内・日田・中津などの諸藩に貸し出しをした。