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小倉藩の踏み絵

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小倉藩は二枚の踏み絵を所有していて、長崎奉行から踏み絵を借りることは無かった。一つは島原の乱で「(前略)守將森(城将森宗意軒)を倒し、一挙にこの郭を乗っ取り(中略)ここに安置したキリシタンの像を分捕りす」(『福岡県史資料』第五輯)というもの、いま一つは、小倉城下町の「円応寺筋の、いま日置太兵衛殿の裏のように話あり、昔、誰人が住居して、いかなる事にて、ここにあり候や、年代わからず」(『福岡県史』第三巻下冊)というもの、藪の中から掘り出された、と伝えられている踏み絵である。宗門改めの一行が、この踏み絵を持って領内を廻郡した。小倉藩では、踏み絵のことを像踏みと呼んでいる(第15図参照)。
 

第15図 踏み絵 (マリア像)
(『切支丹史料集』から)

 踏み絵の実施の模様を『小森承之助日記』(『福岡県史』三巻下)安政六年(一八五九)三月四日の条に、次のように記してある。
 
  寺へ出席の儀は、上席に屛風を堺にして、御役筋一番に出席、屛風の外に御郡目付二番に出席、そのつぎ
  に宗旨手代出席、下目付は、踏み始まり候へば下に下り、踏み場の脇の小屋に出席、大庄屋は、手永の者
  踏み候間は、踏み場の脇の小屋に出席、手代の小屋と向かい合いになり、腰を掛けおり候なり
 
 踏み絵には、身分によって上踏(うわぶ)みと下踏(したぶ)みに分けられ、上踏みは、大庄屋・格式大庄屋・大庄屋格・子供役など、下踏みは、庄屋・方頭(ほうがしら)・組頭・平百姓などで、同じ場で像を踏んでいたが、文久元年(一八六一)の宗門改めから、上踏みと下踏みの場を区別した。大庄屋をはじめ、上踏みの者は、椽(えん)側で像踏みを行い、下踏みの百姓の像踏み場には、雨覆いの上家を掛けて踏むことになった。