ビューア該当ページ

踏み絵の順番

850 ~ 851 / 1391ページ
踏み絵には、踏む順番があって、上踏みの大庄屋・格式大庄屋・大庄屋格・子供役などが踏んだあと、下踏みの庄屋・方頭・組頭・平百姓などが順に踏んだ。しかし、元治元年(一八六四)に踏み順の改定があった。「国作手永大庄屋日記」に、次のように改めたと記してある。
 
  一手永持ち大庄屋・子供役・加勢勘定方は上踏み
  一格式大庄屋、その他格式持ちは上踏み
  一農兵は帯刀で、平百姓より先に下踏み
 
 『中村平左衛門日記』(『福岡県史』第三巻下冊)にも「当年、踏み順は大庄屋・子供役・格式大庄屋の順としたが、前年までは、大庄屋・格式大庄屋・大庄屋格・子供役の順であったが、当年、六郡とも申し出に、御場所手じまいのため、大庄屋より子供役・本役の者、それより格式大庄屋順々踏み方になる」とある。
 踏み頽の改定は、前年の文久三年に農兵徴募があって、家中の者の家来に、農民を取り立てたりしたため、農兵という新しい身分階級ができて、宗門改めの踏み絵の順序に、各郡内で紛議が起こったための改定であった。(『北九州市部落解放史資料』7)
 慶応二年(一八六六)の宗門改め像踏み順は、大幅に変更があった。大庄屋・大庄屋代勤・大庄屋見習・子供役・子供役代勤・子供役加勢・子供役見習・勘定方は、宗門改め当日の御用や世話があって、先に像踏みを済ませることになった。次に格式大庄屋・大庄屋格・格式子供役・撫育方・吟味役・開作掛・百人夫方・同代勤・人馬方・押方・郷筒世話方・子供役格・帯刀御免の者・口屋番の順で、ここまでが上踏みである。続いて下踏みは、農兵・郡医・御手当・郷筒・准農兵・平百姓などが順に踏んで改めを行った(「長井手永大庄屋日記」)。