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抜け踏みの制

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宗門改めの絵踏制度は、恰好(かっこう)の年貢徴収対策として利用された。安政二年(一八五五)十一月、役筋から大庄屋の元へ、年貢の収納状態が悪いため、「早皆済(早期完納)の者を、宗門改めの踏み絵の順番を繰り上げる」案の内沙汰があった。この内沙汰に対し、大庄屋は「順上げでは格別目立たないので、早皆済の者の宗門改めの出席を免除し、踏み絵の場所に、早皆済者の人名を大きく掲示」することを提案した。この提案に対し、役筋から「早皆済の者御賞め方は、宗門改めの節、抜け踏み(踏み絵の免除)に仰せ付けられ候段御治定」(『中村平左衛門日記』北九州市部落解放史資料7)と、踏み絵の免除制度を設けて、早皆済の者に、酒二升を付けて褒賞し、年貢の早期皆済を奨励する手段に絵踏制度を利用した。
 抜け踏みの制度によって、翌三年の宗門改めには、「帳面を以って、申し出られ候名前の者共、心掛け宜しく、当秋納米手早に皆済(完納)いたし候に付き、来週宗門改めの節、絵像抜け踏み申し付け候」(「国作手永大庄屋日記」)と、早期皆済の者に踏み絵の免除をした。また、俵拵(こしら)えの良い者も免除された。そして、踏み絵の義務付けられていない女性には、「呰見村なみ儀、右同断に付、酒料銀壱両差し遣候」(「国作手永大庄屋日記」)と、銀一両の褒賞をしている。