幕府は、絵踏制度を安政五年(一八五八)正月から廃止したが、小倉藩では、その後も続けられた。
小倉藩の絵踏制度の廃止は慶応三年(一八六七)である。「国作手永大庄屋日記」には慶応二年三月二十五日、仲津郡の宗門改めが実施されたことを記してあるが、翌三年の「長井手永大庄屋日記」「友枝手永大庄屋日記」には、この年には宗門改めの記述はない。わずかに「友枝手永大庄屋日記」三月の条に「(前略)昨年は宗門御改め前にて、最早」とあるだけで、この年は、前年の小倉変動の影響で、宗門人別帳の改めだけで、踏み絵はなかった。翌明治元年は、十二月五日から宗門改めの廻郡をしたが、「仏像(踏み絵)無きに付き、寺帳へ調印致させ、見届候段御達しあり」(「長井手永大庄屋日記」)と、踏み絵のないことを通達している。
このように、小倉藩の絵踏制度は、慶応二年の実施が最後で、藩が所有する踏み絵が、同年の小倉変動で焼失したのを契機に、以後廃止された。幕府は既に安政五年に廃止しており、隣藩の中津藩も万延元年(一八六〇)に廃止していた。小倉藩の廃止は、幕府の絵踏制度廃止から、遅れること九年にして実施された。