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唐船打ち払い

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八代将軍徳川吉宗が享保の改革(一七一六―四五)を始め、〝諸事権現様(家康)の御定の通り〟との復古的な理念を掲げ、側用人政治を廃止して将軍親政を開始した。急務を要する政策課題は幕府、武士の財政難の克服にあった。上米(あげまい)の制・足高(たしだか)の制などの財政緊縮政策を打ち出した。収入増加策としては、幕領で徴租法の仕組みを検見法から定免法に切り替えて財政の安定的収納・増収を図った。また、青木昆陽に命じて備荒貯蓄の一環として甘藷(かんしょ)の栽培を研究させたことは有名である。そして菜種・櫨(はぜ)・朝鮮人参などの商品作物の栽培の奨励をするなど、復古的というよりむしろ現実的な政策を展開した。
 このころ、玄界灘周辺の藩域海上には密貿易船(唐船=清船)が出没する状態が続いていた。周知のように、寛永十六年(一六三九)の鎖国令によって貿易は長崎に限られ、かつ幕府の統制下に置かれた。さらにオランダ人は出島に移された。これを一般に鎖国の完成というが、長崎ではオランダ船と中国船とが入港して貿易が行われたのである。これを長崎貿易という。ところが、この貿易によって金・銀・銅の国外流出が多くなり、また貿易船の数も減少する傾向はなかった。その上、この頃国内では金銀の産出量が最盛期を過ぎ、減少期に入っていたのであった。そこで新井白石は正徳五年(一七一五)に貿易船隻数と貿易量を制限する「海舶互市新令」を発した。この措置に対して、制限にはずれた「唐船」が自然発生的な形態で九州北部に出現して密貿易を行うようになったのである。したがって、この「唐船」は長崎貿易の政策と無関係ではない「私貿易」の一種としての性格を有し、漂流を装って出現するようになったのである。しかも、若松沖から白島・六連・小倉沖の海域は、北前船や肥前・筑後回り、また豊後から肥前行き、さらに瀬戸内海から筑前・山陰に抜ける四つの航路の交差点にあって、「密貿易=出合貿易」船にとって絶好の海域(第17図)であった。日本船にとってもまた「唐船」にとっても双方に利益は存在したのであった。
 

第17図 響灘・玄界灘近海の地図
(地図は「唐船漂流記」『北楠叢書』を参照)

 小倉藩が最初に「唐船」に遭遇したのは、宝永二年(一七〇五)であった。家老たちの評議により、先手物頭など藩士を海上に向かわせた。ところが唐船は六連沖に移動したところを萩(長州)藩の軍船が包囲して赤間関(下関)に誘導して、同藩から長崎に護送した。正徳二年(一七一二)には福岡藩領若松沖に出現したので小倉藩も検分船を派遣したが、前回と同様唐船は六連沖に漂流するところを萩藩が捕らえて赤間関に誘導した。長崎奉行の指示により海上領外へ追放した。こうして、諸藩は密貿易船の出現にようやく関心を払うようになった。そして、従来は監視体制であったものを正徳二年に改正し、長崎奉行は「追い払い」の指示を諸藩に出した。この指示はやがて、海舶互市新令による長崎貿易の制限で締め出しを受けた唐船の「漂流」増加がみられるようになると、その監視体制と「追い払い」体制の強化の必要性が生じるようになる。
 福岡藩では、既に寛永十七年(一六四〇)五月のポルトガル船の来航を契機に領内の外国船監視体制をしいていたものを二度にわたって整備強化した。正保二年(一六四五)と延宝四年(一六七六)である。こうして、享保二年(一七一七)には、若松沖で唐船を打ち払った。
 小倉藩でも、監視体制は整備され、宝永二年(一七〇五)の唐船事件以来取り締まりは厳重になり、正徳五年(一七一五)には門司の葛葉に遠見番所を設置して、番士・番船を備えた。
 享保元年(一七一六)になると、密貿易船が増加して、四月十三日・十五日・九月二十四日には唐船発見の報告が相ついだ。また、密貿易に応じるものが生じてきたため、六月二十六日には、常設していた藍島番所を増築し、警戒体制を強化した。翌二年から唐船は頻繁に現れるようになった(第27表参照)。
第27表 響灘周辺に現れた唐船
(『北九州市史』近世編728~744ページから作成)
年 代西 暦月 日備 考
宝永21705 7月13日厦(アモイ)門船、家老らの評議で藩士を向かわせた。
正徳2171211月  若松沖に出現
享保117164・9月3回の密貿易船の注進
享保21717福岡藩が打ち払う
享保21717 1月 4日藍島番所から3艘のち2艘増加
 2月 5日12艘
 同 8日13艘
 同12日14艘
 同21日10艘が去らなかった。
 3月14日14艘
 同22日15艘
 5月18日15艘
 6月 2日福岡沖に6艘
 8月26日小倉沖に現れる
11月  9艘
11月18日3艘
12月  8艘
享保31718 1月  8艘
 2月11日10艘
 3月13日6艘
享保41719 4月21日1艘
12月10日1艘
享保51720 2月13日1艘(福岡領)
 3月16日1艘(小倉領)
享保1117261艘(萩藩)
享保15  5月  
 8月  
寛政31791 7月14日異国船1艘
11月12日1艘

 享保二年の唐船の出現は次第に船数も増加した。小倉藩は船奉行や長崎聞役などが出船して追い払ったが効果は無かった。福岡藩からも浦奉行以下が若松から出張り、厳重な警戒に当たった。こうした中で、小倉藩の船奉行が、四月二十一日唐船に乗り込み筆談で退去するように命じたが、どの唐船も天候不順を理由に去らなかった。そこで、小倉藩・萩藩・福岡藩がそれぞれ出張って追い払ったが、藩域の関係を利用して逃げ回ったため、追い払いに成功しなかった。三藩合同の対策が必要になった。小倉藩主小笠原忠雄は幕府に指示を仰いだ結果、四月二十一日に老中より幕府の方針が示された。
  一、藍島、六連島の周辺にかかわって出現した唐船については、三藩合同で追い払うこと。
  一、鉄砲の用意をして、「唐船よりもしかと目に立つ」ようにすること。
  一、万一唐船共より手向かってきた場合には「大筒にて船をうちふし候而も不苦」。
                       (小笠原文庫「唐船漂流記」、北楠叢書1『唐船漂流記』)
  との強硬策も示された。
 こうして、小笠原忠雄の指揮のもとに三藩合同で五六〇艘の船団を出して追い払おうとしたが成功しなかった。そこで次第に三藩の家臣団の間で不満が高じて、唐船の接近に対しては大筒による威嚇射撃を認めるよう求められ、藩主たちは了解せざるを得なかった。さらに、十一月には江戸の老中より「鉄砲による打ち払い」が許された。しかし、唐船の撃沈は認められなかったので、現地の焦慮が高じつつあった享保三年(一七一八)からは打ち払い体制は強化され、四月十五日から翌日にかけての包囲作戦では、五〇〇発も砲撃がなされた。享保五年からは唐船の漂流は激減したが、翌六年からは藍島に旗柱を設けて、唐船を発見した場合には、紺地に白の三階菱である小笠原氏の大形紋旗を掲げて福岡藩・萩藩に通報する方法がとられるようになった。以上のような監視体制に、さらに通報体制が整っていった(以上、『北九州市史』近世編第三編第二章を主として参考にした)。