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享保の飢饉

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享保十七年(一七三二)のいわゆる享保の飢饉(ききん)について、小倉藩の状態は次のように記されている。「享保十七壬子年、大飢饉抜書、麦作赤手入大寿(麦)五歩小麦二歩也。五月閏は雨降事五十日、此時に当り人民夥敷病む。」(「倉府見聞集」豊前叢書刊行会編『豊前叢書』第二巻)と麦作の大不作で始まる享保の飢饉の惨状は以下のような経過をたどった。
 ① 閏五月十二日大洪水(川土手破損・おびただしい損害田発生)
 ② 六月末「蟲気」甚(多くの害虫が発生している)
 ③ 七月◇一坪の内、ざるに取れば五~七升におよぶ虫の抜けがらがあり、成長した虫は稲の
 根より葉までひしと取り付き喰っている。「一夜の内に草田枯果申候」といった
 状態になった。
◇例年だと盆前後におびただしい赤とんぼがいるのに「一疋や居不申」と観察され
 ている。
◇他書では七月上旬より小倉領中稲虫付夥く損毛あり(四国中国一同如此)
       (「歴代藩主下」豊前叢書刊行会『豊前叢書』第四巻一八七ページ)
◇七月より、郡中の老若男女、蓑をかるい小倉城下へ出る者昼夜引きもきらず。
 ④ 八月◇郡中に売り米なし  ◇藩側より介抱としての売り米が拠出された。
 ⑤ 十月◇郡中にいよいよ売り米なし  ◇藩側より介抱としての売り米が拠出された。
◇晦日、奉行による皆損田の調査
 ⑥ 十一月このころより餓死者続出(この時の餓死者などの被害は、第六節の「飢饉と災害」を参照)


 そして、この年の年貢収納高は「此方様に壱万五千石、御屋敷様へ七百五十石御収納有之候由」と平年作の収納高が九万九千五百石余(「旧租要略」『県資』第八輯五九二ページ)だから、その一割にもおよばない。その上、幕府が小倉藩に命じて囲わせていた城米(元来、軍事用兵粮米)も引き上げさせられたという。
 九月になって飢饉の状態を江戸の老中に報告し、幕府より被害にあっている藩主たちに拝借金が貸しされるようになった。小倉藩には一万二〇〇〇両の拝借を許された。返済は「寅の歳より五ケ年賦」(「歴代藩主下」豊前叢書刊行会『豊前叢書』第四巻一八七ページ、『御當家末書』(下)三八六ページ)であった。