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農村の荒廃と人口動態

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田川郡でのことであるが、安永三年(一七七四)の大庄屋の記録に近年は年貢や諸上納の勘定に差し支えることが多くなったと出てくる。その理由として①無主田の存在、②年貢間米の負担、③借銀が多くなったからだという。先述の「郡方大意」の内容と一致する現象が生じてきたことをいっているのである。①無主田とは、耕作者のいない田畠のことで、もちろんその原因が問われるが、現実問題として誰かが耕作を肩代わりしなければならない。または「村総作田」といった形で村全体で耕作を請け負うようになってきた。②年貢間米とは、年貢賦課量と実際に納めることのできた量の差引量=間米を村が責任をもって負担(納入)することをいっているのである。したがって、①、②の問題を解決しようとすれば、個人的な借金はもちろん村全体での借金、ひいては手永全体の借金が生じてくる。
 こうして、藩側は年貢収納の安定化を、「村請制」を利用しつつ実現し、農村社会内部では零落する百姓をどんどん生んでいくようになる。つまり、未進百姓(年貢を完納できなかったもの)→潰(つぶ)れ百姓→「潰れなかった」本百姓の負担増大→本百姓の潰れの拡大といった悪循環が生じる。これに対して、藩側は「拝借」を与えて一時凌(しの)ぎをしたのである。
 ちょうど、このような年貢徴収法の転換の前後は江戸時代の有名な三大飢饉の二つがある。つまり、享保の飢饉(享保十七年=一七三二)と天明の飢饉(一七八二―八七)である(飢饉などの天災については、第六節参照)。
 以下に、天災が年貢との関係が生じたものを掲げておく。
 
 明和三年(一七六六)、「御郡中夥敷蝗虫ニ而(中略)…田川郡中四千三百三拾石余」(安永文書「万歳暦上」、『方城町史』史料編に翻刻)の年貢免除があった。
 同四年には田川郡で一八〇〇石余の年貢免除(安永文書前掲史料)
 同五年には同郡で二八〇〇石余の免除(安永文書前掲史料)。
 天明三年(一七八三)に、「前代未聞の御引」(岡崎文書「天明三御用日記」)といわれたほどの年貢引きがあった。
 天明八年(一七八八)には、「物成弐万三百四拾六石余ノ損毛」(「旧租要略」『県資』第八輯五九二ページ)といった年貢免除がなされた。
 寛政四年(一七九二)は、「肥前嶋原大ヘン、此辺迄も大ナエ」(吉尾文書、『方城町史』史料編三〇五ページ)と記されている、いわゆる。〝島原大変、肥後迷惑〟の島原半島の眉山の爆発と大津波の災害のあった年である。七月の盆前後より稲虫が発生し稲が腐れだし、その上二度にわたって台風が襲来し洪水が発生した。「六十一年之年忌大変と申触、珍敷凶作」となり、田川郡は一万六〇〇石余、領国中で五万八〇〇〇石の年貢免除となった。このため「万民格別之餓死モ無之、皆々有難奉存、殿様祭リ仕候事」といった状態だったと記録されている(安永文書前掲史料、損害・年貢引きの状態については「小倉藩主記録」『県資』第八輯五三二ページにもあり)。
 
 こういった凶作・飢饉状態は、人口の激減をもたらす、そうして耕作者の減少をもたらした。寛政四年のように餓死者がなくて「殿様祭り」が行われたという記事は注目に値する。
 人口の動態については、第19・20図を参照していただきたい。
 

第19図 郡別の人口動態


第20図 小倉藩全域の人口動態

 当然のように、享保の飢饉から一三年後の調査となる延享三年(一七四六)の領内人口は一三万三八七三人を記録する。それから寛延三年(一七五〇)の一三万〇六六三人に激減した記録をみて、明和・安永期(一七六四―七二、一七七二―一七八一)には一時的に増加する。しかし、天明の飢饉の時期の天明六年(一七八六)で大きく一三万台を割りこみ、さらに寛政期(一七八九―一八〇一)を経て文化七年(一八一〇)には最低の一二万四八四九人となる。そして、次第に人口は回復傾向に向かうが安定した回復にはならないのである。こうして、寛政期から始まって、文化・文政期(一八〇四―三〇)・天保期(一八三〇―四四)、すなわち十九世紀前半にかけて、このための人口増加策が重要な課題の一つになるのである。
小倉藩人口に関する文献
年 代西暦出     典備   考
延享 31746「延享三年小倉藩の記録」(『県資』第二輯)「上毛郡之内」とは友枝・三毛門両手永のこと
寛延 31750「小倉藩主記録」(『県資』第七輯)
明和 51768小笠原文庫「豊前国企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡之内人数帳」『豊津藩歴史と風土』第一輯に収録されている。
安永 31774友石文書No80(「明治廿三年福岡縣財政誌編纂雑留」)
安永 91780「御當家末書(下)」(『県史料』354~55ページ)
天明 61786小笠原文庫「豊前国企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡之内人数帳」『豊津藩歴史と風土』第一輯に収録されている。
寛政101798「歴代藩主(下)」(『豊前叢書』第四巻313ページ)藩主より幕府に届け出
文化 71810友石文書No80(「明治廿三年福岡縣財政誌編纂雑留」)小倉城下の人数が入っていない?
文政111828小笠原文庫「豊前国企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡之内人数帳」『豊津藩歴史と風土』第一輯に収録されている。
天保111840九州文化史研究所架蔵「竈数人数書上帳并其書類」弘化三年の記録から逆算した。
弘化 31846九州文化史研究所架蔵「竃数人数書上帳并其書類」
慶応 21866友枝文書No3290「六郡村名竈数其外調子帳」
慶応 21866長井手永大庄屋文書「慶応二年 六郡村名竈数内外調子帳 九月 長井勝敬扣」(『豊津藩歴史と風土』第三輯197~223ページ)、小祝村を含む
慶応 31867友石文書「慶応三年卯六月 仲津郡村々竈数・人数・牛馬数書上帳」
慶応 41868「豊前口戦争後記上」(「毛利家文庫66四境戦争5-2-1」山口県立文書館)