『小倉市誌』(下巻四九五~四九七ページ)によれば、犬甘兵庫知寛(以下、犬甘兵庫と略す)は、長坂守興の次男として生まれ、のちに家老の犬甘知徳の養子として一二〇〇石を相続した。安永六年(一七七七)に家老となり、八年には勝手方助役、翌九年勝手方本役に就任した。そして天明二年(一七八二)加増(経歴については、第28表参照)となった。しかし、同六年(一七八六)四月「御勝手方御免。其の後また御勝手方」とある。寛政元年(一七八九)暮れに、「御当職伊藤衛守様御役御免、御中老末座ニ被仰付候、御跡役犬甘兵庫様被蒙仰候、御郡代横山源太兵衛様、同春願之通り御役儀御免、御跡役藤江内記様ニ被仰付候」(安永文書「万歳暦上」『方城町史資料』)と、勝手方引請の筆頭家老に伊藤氏から犬甘兵庫に交替した記事に接する。
第28表 犬甘兵庫の経歴 |
年 代 | 西暦 | こ と が ら |
明和 2年 5月21日 | 1765 | 養父知徳の遺領1200石相続 |
安永 6年正月11日 | 1777 | 家老 |
同 8年正月11日 | 1779 | 御勝手方助役 |
同 9年 2月29日 | 1780 | 御勝手方本役 |
天明 2年12月16日 | 1782 | 300石加恩 |
同 6年 4月23日 | 1786 | 御勝手方御免。その後また御勝手方 |
同 7年 9月 6日 | 1787 | 200石加恩 |
寛政12年10月17日 | 1800 | 300石加恩 |
享和 2年12月17日 | 1802 | 300石加恩、家老上席桜間詰、2300石 |
同 3年正月19日 | 1803 | 格禄召し上げられ蟄居 |
同 2月 6日 | 同 | 企救郡頂吉村に蟄居 |
同冬 | 同 | 死去 |
(『小倉市誌』下巻 496―497ページ) |
犬甘兵庫の業績・事跡は成果としてあげられるが、その政治手法や政策などはほとんど不明である。特に安永四年(一七七五)に始めたといわれる面扶持制の実施については、田中不偏著『犬甘兵庫伝』にあるのみであり、前掲の『小倉市誌』には「知寛在職中の事業枚挙に遑(いとま)あらず。…(中略)…但附記の年代の如き、或は誤無きを保せず」としるした上で、第29表のように事業そのものを挙げているに過ぎない。したがって、どのようにして、このような事を為し得たのかを明らかにするものは示していない。
また、『福岡県史』(第三巻下冊三六〇~三六一ページ)でも色々な事跡をあげている。両書で一覧表を作成した(第29表)。
第29表 犬甘兵庫の事跡Ⅰ |
(『小倉市誌』下巻497ページ、*印は『福岡県史』第3巻下冊360ページから追加) |
年 代 | 西 暦 | 事 跡 |
天明1 | 1781 | 橋本に御客館を建築する |
天明1~ 同3 | 1781~ 1783 | 常盤橋の上流両岸の埋立工事をする |
天明1~ 同3 | 1781~ 1783 | 日明新地の干拓をする |
天明8~ 寛政2 | 1788~ 1790 | 小倉港口の西濱に大倉庫を建築する |
*寛政4 | 1792 | 10月、損毛13万石余、しかし幕府から拝借なし。「犬甘の功績か」 |
*寛政6 | 1794 | 文武館の建築をした(『小倉市誌』下巻には年代の記載なし) |
*寛政8 | 1796 | (5ヵ年間の厳密な倹約令を出す) |
寛政4~ 享和3 | 1796~ 1803 | 曽根に干拓地をつくる(曽根新田) |
*寛政10 ・同11 | 1798 1799 | 藩庫を充実して、家臣の俸禄を額面通り渡すようにした。(同じく、同上『市誌』には年代なし) |
*寛政11 | 1799 | 銀子を領民に分かつ |
*享和1 | 1801 | 小倉橋本門内に客館を建築。東西17間・南北27間・2階付居間向・諸役所以下・畳400枚余(注) |
(注) | この点に関し、「小倉藩主記録」(『県資』第8輯542ページ)には「是迄在り来る處之會所の地を、とり弘め、古来の通り、客館を建てられ、作事有り」と、大幅な改築がなされたとの記録がある。 |
今後のためにも、田中不偏著『犬甘兵庫伝』で示されている事跡をあげておくべきであろう(第30表)。
第30表 犬甘兵庫の業績Ⅱ |
年 代 | 西 暦 | 業 績 |
安永4 | 1775 | 面扶持制(3年間) |
安永8 | 1779 | 運上金の新制 酒造商および販売商、薪炭売買 醬油製造および売買、商人宿屋 呉服太物商、魚類問屋 質商、渡海船 米および雑穀商、諸入津の運上 |
同上 | 同上 | 藩士の掛米2カ年分を返済した蔵米を12月に大坂へ登らせ、利益をあげた。 |
安永9 | 1780 | 干拓地の資金として、大坂の商人播磨屋から1万5000両、伝法寺屋より2万両を借り入れて、藩の借財を犬甘個人名義にして藩の負担とならないようにした。 |
(田中不偏著『犬甘兵庫伝』のみに記載されている分) |
その一方で、前掲『福岡県史』(三六一~三六三ページ)においては、犬甘兵庫の失政を次のようにあげている。
特に、「豊陽異談」からの引用として、金銀・諸道具など「筆紙に尽し難し」ほどの私蔵などを示して、「亡所・亡村…(中略)…人口減少」などは、彼の財政政策の影響によるとした。また、彼の「勝手方就任中安永八年―享和三年、二十五年間に大坂・京都での莫大な借用金銀の返済は真に財政の立て直しとは言えない」とし、小笠原一族の家老職小笠原帯刀長稙を幽閉したかどで失脚に追い込まれたとしている。
ところが、肥後細川藩の老臣堀平太左衛門は知寛と親しく、小倉を通過する時には堀氏は必ず彼を訪問したという。そして「経国の策を談じて、時を移るを知らず、互いに推賞して賢と称したり」と、さらに「犬甘の後に杉生貞則あり。此の二人は小倉藩に於ける大事業家」と評価する記述もある(前掲『小倉市誌』下巻四九七ページ)。
犬甘兵庫は「讒に遇(誹謗されて)」(『小倉市誌』下巻四九五ページ)って、享和三年(一八〇二)企救郡頂吉(かぐめよし)村に蟄居させられ、そこにおいて果てた。