寛政五年(一七九三)九月に「御建替ニ付御條目」(香春町中西家文書)が出された。その内容は「此度、格別遂詮議、御郡中役人をも相減、切銭諸役目など之義ニ至迄、成丈減方申付」け、郡中に出張する役人の費用を削減することに主眼が置かれていた。そして、「少々ニ而も下方力ニ可相成」と、少しでも領民のためになるように心掛けるものであった。したがって、出郡する役人の賄い、「無益の内夫遣い」が無いように徹底させている。その主なものを列記する。
一、郡目付ならびに廻り方の者は是迄は庄屋宅ばかりに宿泊していたが、これからは通りがかりの平百姓
の家に宿泊し、一匁の賄い料で済ます事。
一、郷蔵に上納米を出すときに、米宿はこれまで一村ずつ設けていたが、これからは手永ごとの米宿を定
めるようにする事。
一、大庄屋子供役小庄屋に至るまで、夫役をかねてより免除しているにもかかわらず、私用で小倉城下に
出ていくときに私用の夫遣いは「夫遣い二重」になる。
一、勘定庄屋の給米は一手永に二人ずつとなっていたが、他に、郡勘定引請庄屋との名目をたてて郡にも
勘定庄屋がいるとのことだが、これからは郡内の大庄屋たちから一人を毎年「当務」として捌(さば)
くようにさせた。
一、「内借」の貸借利息について、以来「六郡一同に随分利安」にするようにすること。
総じて、郡方の業務の点検と倹約を指示したものとなっている。
こうして、翌年、寛政六年五月に「御建替仕法帳」(六角家文書・中西家文書)が出される。これは、従来の夫役・年貢(本年貢・小物成など)以外の「諸役目」といわれる負担は百姓の持高を基準にして決められていた。この賦課対象になっていた者は主として本百姓であったが、その対象を本百姓はもちろんであるが、無高百姓、諸商人・「遊民」・諸職人など、年齢も一五~六〇歳の者に負担させるようにした。これを一般的には「高役」から「面役」への転換という。いわゆる人頭税にしたというものである。
この転換は、当時の農村社会にとって非常な阻害要素となっていた「無主地」といわれる、耕作者がいない田地が多くなっていたこと、その一方で、先述したような「惣定免制」の実施をやめないで年貢収納を維持していたこと、このため主たる年貢負担者である本百姓の経営維持・存続が容易でなくなってきたために用意された政策であった。簡単に説明をすると、百姓が年貢未納(これを「未進」という)によって、零落した農民が「欠落」して、奉公人に転じたり、「遊民」化するような状態の結果、土地が放棄されて「無主地」・「散田」・「余り地」といわれる田畠が生まれてきたのである。もちろん、年貢未進だけが理由ではない。
だからといって、年貢やそのほか手永・村の費用その他の出費は減じられるわけではないから、本百姓の減少と無主地の拡大は、かえって経営を維持している本百姓に加算された形で負担増となる仕組みをとらされていたから、村によってはますます苦しい状態に追い込まれるという事態が生じてきたのであった。
そこで、藩権力が意図したものは、第一に本百姓の負担を軽減しようとして、年貢以外の諸役目や諸弁(わきま)え物の負担を軽減する方法として考え出されたものであった。第二は奉公人を確保して本百姓の再生産を維持させようとしていることである。第三には無高百姓・遊民・諸職人・諸商人などの把握と課税対象を確保しようとしていること。さらに、江戸時代初期の段階で確定している土地の高を「定米」というより現実的な収穫量に近い高に着目している点があげられる。
結局、今までの年貢収奪を改変することなく、従来どおりでの本百姓保護・維持政策であったということができる。