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囲米

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既に小倉藩では実施していたことであるが、寛政元年(一七八九)に幕府より囲米(囲い籾)を命じられた。これは飢饉に備えるための備荒貯蓄政策といわれるものである。小倉藩は、延宝三年(一六七五)の飢饉の教訓から、備荒貯蓄のため年貢米の一部を蓄えるために、村々に郷蔵を置いたという。この蔵には、村の上納高の二〇分の一の籾を村民一同から集め村預かりとしたもので、これが凶年対策の始まりという(『福岡県史』第三巻下冊七〇一ページ)。一方、幕府で天和三年(一六八三)に諸藩に命じて救荒用として囲米を命じた。さらに、宝暦三年(一七五三)には高一万石について一〇〇〇俵ずつの囲い置きを命じた。そして、この寛政元年の囲米政策はいわゆる寛政の改革の一環としてなされたもので、諸藩自身に行わせるのではなく、領内在町の富裕者たちに行わせた点に特徴がある。それは高一万石につき五〇石の割合(一年分)で、翌年から五ヵ年間囲米せよという内容であった。小倉藩の場合は第31表のとおりであり、安永三年(一七七四)と同様に年貢収納米から囲い置いた(『豊前市史』上巻七八四ページ)。
第31表 六郡の囲米(籾)
(『福岡県史』第3巻下冊、『門司郷土叢書』2巻、「友枝文書」2126)
郡 名籾 数(石)
企 救1,500
田 川2,000
京 都1,150
仲 津1,350
築 城850
上 毛650
合 計7,500
御領分300
総 計7,800