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寛政十年の達書

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寛政四年(一七九二)に条目(これは、寛政三年に制定し、翌四年に公布したものだと考えられている)が出された(「寛政三年の條目」『県資』第四輯)。この条目は、特に郡方支配に関する法度を中心に出された。近ごろ風俗が悪くなって、百姓どもが農業を忘れ、心得違いのものが多くなってきたとして厳しく取り締まる姿勢を示した。百姓が四季に応じて農業に専念するべきを、凶年の苦しさを忘れて、美食や酒宴を催して遊興に明け暮れているのは不届きである。このため、その風潮が荒仕子や下女などの奉公人にもおよんでいる。また、小倉城下に出府の折に許可している馬に乗る特権を、近年には庄屋や「徳人」といわれる富裕者までもが真似をしているのは不届きであるとして禁止した。そのほか、衣類について、参宮について、あるいは神事についてなどが定められている。この年は、大変な凶作となったが、「触」自体は前年の定めであるのでこういった内容となっている。
 一方藩士に対し、同四年に五ヵ年の年限付きで倹約令が出された(『御当家末書』(上)四四五ページ)。しかし翌五年には、藩士の掛米は廃止され、「永々本知」(「歴代藩主(下)―小笠原忠苗時代―」『豊前叢書』第四巻三〇六ページ)となった。その上、藩主忠苗(ただみつ)はこの年廻郡し、領中の七〇歳以上の老人に酒肴を振る舞い、およそ三、四千両を費やしたという(「歴代藩主」(下)三〇七ページ)。しかし、寛政七年(一七九五)には「去秋於小倉表は又々御掛米等被仰付」(『御当家末書』(上)四四五ページ)と再び掛米に復した。
 さらに、翌八年春には江戸城西の丸の修復の手伝いが課せられた。こうして再び五ヵ年の厳しい倹約令が出された(前同『末書』(上)、「小倉藩主記録」『県資』第四輯五三六ページ)。「一役に一人つゝ、倹約懸り」を立てる念の入れようであった。
 そして、突然、寛政十年(一七九八)九月、「小倉宝蔵貯銀四百余箱(中略)犬甘兵庫知寛、公の一覧に入る」(前掲「小倉藩主記録」五三七ページ)と、犬甘兵庫が一箱二〇貫目入の箱を見せてその蓄財ぶりを示した。十月朔日には、お目見以上の家臣の総登城が行われ、さらに「郡町御救い」を趣旨とした「達し」(前掲「小倉藩主記録」、「久保田文書」)が出された。この達しは全五条にわたるものである。『県資』第四輯収録の方は後略されているが、ただ、郡町の全領民に渡った救銀は「高七十一貫三百匁余りなりとかや。即日、目見已上の諸士登城(中略)その格式に応じ、銀子を賜ること」(前掲「小倉藩主記録」五三九ページ)として第34表のようになっていた。また、鰥寡(かんか)孤独の者や病身の者の救済のため城下の門外に「撫育所」を建て朝夕の施食や治療を施すようにしている。この施策も風儀にかかわることにもなるので、もちろん今までどおり倹約に励み、生業も怠ることも忘れてはいけないと触れ出した。家臣に渡すことについても「委曲は兵庫可申聞也」(「久保田文書」)と、藩主忠苗はそのやり方は犬甘兵庫に委ねている。こうして、家中へ、領民への救銀の方法は兵庫に委ねられていたのである。
第34表 下賜銀の内訳
銀(枚数)家臣の職名
27家老
23中老
12用人、名字番頭、外様番頭
10近習番頭、篠崎付きの家老
 8側役、旗鎗奉行
 7大目付、近習物頭、外様物頭同格
 6三役所
 5小性、北の丸重役、近習番、側医、賄役、厩方、鳥見頭取、鷹方頭取、鉄炮方役、番外医、茶道頭、馬廻
 3通番肝煎、両番目付、通ひ番、天守番、小性組、書院番
 2目見え組外、同以下組外
 1(5両ずつ)組抜勤番
 1(3両ずつ)諸足軽
 1中間
(「小倉藩主記録」『県資』第4輯 540ページ、「歴代藩主下」『豊前叢書』第4巻)

 さらに、翌十一年十月には軍用金の見分があったが、この時兵庫はおよそ一〇万両を示した(前掲「小倉藩主記録」五四一ページ)とのことである。犬甘兵庫の絶頂期であった。