一方藩士に対し、同四年に五ヵ年の年限付きで倹約令が出された(『御当家末書』(上)四四五ページ)。しかし翌五年には、藩士の掛米は廃止され、「永々本知」(「歴代藩主(下)―小笠原忠苗時代―」『豊前叢書』第四巻三〇六ページ)となった。その上、藩主忠苗(ただみつ)はこの年廻郡し、領中の七〇歳以上の老人に酒肴を振る舞い、およそ三、四千両を費やしたという(「歴代藩主」(下)三〇七ページ)。しかし、寛政七年(一七九五)には「去秋於小倉表は又々御掛米等被仰付」(『御当家末書』(上)四四五ページ)と再び掛米に復した。
さらに、翌八年春には江戸城西の丸の修復の手伝いが課せられた。こうして再び五ヵ年の厳しい倹約令が出された(前同『末書』(上)、「小倉藩主記録」『県資』第四輯五三六ページ)。「一役に一人つゝ、倹約懸り」を立てる念の入れようであった。
そして、突然、寛政十年(一七九八)九月、「小倉宝蔵貯銀四百余箱(中略)犬甘兵庫知寛、公の一覧に入る」(前掲「小倉藩主記録」五三七ページ)と、犬甘兵庫が一箱二〇貫目入の箱を見せてその蓄財ぶりを示した。十月朔日には、お目見以上の家臣の総登城が行われ、さらに「郡町御救い」を趣旨とした「達し」(前掲「小倉藩主記録」、「久保田文書」)が出された。この達しは全五条にわたるものである。『県資』第四輯収録の方は後略されているが、ただ、郡町の全領民に渡った救銀は「高七十一貫三百匁余りなりとかや。即日、目見已上の諸士登城(中略)その格式に応じ、銀子を賜ること」(前掲「小倉藩主記録」五三九ページ)として第34表のようになっていた。また、鰥寡(かんか)孤独の者や病身の者の救済のため城下の門外に「撫育所」を建て朝夕の施食や治療を施すようにしている。この施策も風儀にかかわることにもなるので、もちろん今までどおり倹約に励み、生業も怠ることも忘れてはいけないと触れ出した。家臣に渡すことについても「委曲は兵庫可申聞也」(「久保田文書」)と、藩主忠苗はそのやり方は犬甘兵庫に委ねている。こうして、家中へ、領民への救銀の方法は兵庫に委ねられていたのである。
第34表 下賜銀の内訳 |
銀(枚数) | 家臣の職名 |
27 | 家老 |
23 | 中老 |
12 | 用人、名字番頭、外様番頭 |
10 | 近習番頭、篠崎付きの家老 |
8 | 側役、旗鎗奉行 |
7 | 大目付、近習物頭、外様物頭同格 |
6 | 三役所 |
5 | 小性、北の丸重役、近習番、側医、賄役、厩方、鳥見頭取、鷹方頭取、鉄炮方役、番外医、茶道頭、馬廻 |
3 | 通番肝煎、両番目付、通ひ番、天守番、小性組、書院番 |
2 | 目見え組外、同以下組外 |
1(5両ずつ) | 組抜勤番 |
1(3両ずつ) | 諸足軽 |
1 | 中間 |
(「小倉藩主記録」『県資』第4輯 540ページ、「歴代藩主下」『豊前叢書』第4巻) |
さらに、翌十一年十月には軍用金の見分があったが、この時兵庫はおよそ一〇万両を示した(前掲「小倉藩主記録」五四一ページ)とのことである。犬甘兵庫の絶頂期であった。