藩の体制整備とは財政面の弱まりを立て直すことが最大の目標である。財政立て直しの基礎は、いかにしてより多くの年貢を農民から取り立てるかにある。年貢の取り立ては、常に農民が命をつないでいく最低のものを残し、あとは全部取り立てようとする動きになる。
世の中が何ごともなく平穏無事であれば、農民の生活も最低ぎりぎりの線を続けることが出来るが、天災が起こったり、藩で不時の出費が起こり、これを賄うため臨時に年貢の増徴などがあると、これに耐え得ない農民層は、その生活が破壊されてしまう。年貢負担者である農民が潰れていくことは、藩としても年貢徴収の基盤の弱体化につながることになる。
天災や不時の出費とは別に、社会全体の大きな流れの中に体制を揺るがす大きな要因がある。それは商品流通が次第に盛んになってくることである。商品流通は商品作物の生産を促す。綿(衣料)・菜種子(なたね)(油)・櫨(はぜ)(蠟)その他の栽培は、米―年貢―の生産と矛盾をきたすが、商品作物の栽培に力を入れた方が米を作るより利益があれば、米の増産が抑えられてしまう。麻の着物がより温かく丈夫で美しい木綿の着物に変わってくる。綿からは綿糸だけでなく綿の実油も絞ることができる。貧困の中で人びとの生活水準の向上がもたらされ、生活費は増えてくる。それはこんにちの私たちの生活を考えても理解できると思う。三〇年前まではテレビや電気洗濯機・電気冷蔵庫などは無かったが、今では日本中のほとんどの家庭がもっている。ではそれを持っていなかった時代に比べて生活にゆとりが出来て楽になったかと言うと、そんなことはない。生活費が膨張して生活の苦しさは、そんなものが無かった時代とほとんど変わらない。商品流通が盛んになるというのは、このような現象を呈することなのである。もちろん社会全体から見れば、富は大きく膨らんだことは事実である。これは社会全体の生産力の伸びがそのような生活を支え得るように発展したことが、基礎になったものである。
だから藩としては、体制整備をして社会的に上昇した生産力からの果実を収奪しようとするが、人びとの生活との均衡など顧慮せず、商品流通を抑える方向で実現しようとする。そして封建体制というものは、もともと身分階層を固めることによって支配の貫徹を図ろうとするものであるから、まず身分制の強化が実施されてくる。
藩ではいろいろと年貢増徴策を実施し、年貢徴収台帳である水帳の改正まで行った。しかしこれでも行き詰まり、元禄元年(一六八八)農民から年貢のほかに願い上げ米という形で年貢増徴をした。武士に対しても元禄八年(一六九五)になると知行・扶持米の完全支給が出来なくなり、献上米という形で一部が差し引かれることになった。農民の場合には、ものを生産する土地を持っているので、年貢増徴でゆとりがなく拡大再生産が不可能であっても、生活水準について行くことは出来る(ただし、これは原則論であって、実際には限界を超えた年貢徴収が行われるので農民も潰れていく)。武士の場合は藩から支給される俸禄米で生活しており、これは一定して変化がないので、社会全体の富が増大し商品流通が拡大してくればくるほど、生活は絶対的に苦しくなってくる(米の価格が生活水準の向上に比例して上昇することはあり得ないため)。社会の流れに対応した生活をするため、法度(はっと)で定められた家来の数を減らしたり、家事使用人がまず減らされることになる。しかも生活費増大の中で俸禄米の支給が減らされることになった。内職でもしなければ生活出来ない武士の数が次第に増えていく。
この俸禄米の一部不支給も、武士の自発的意志である献上米という形をとるのである。そしてこれと同時に倹約令も出され、領内では武士も絹物の着用が禁止される。