十八世紀に入るころから、北九州沖に中国の密貿易船が出没し始める。鎖国により外国との貿易は長崎一港に制限されていたが、それだけに貿易品を取り扱う利益は大きく、長崎での貿易は非常に活発になる。このため、わが国から流出する金銀銅は莫大な量になった。わが国の金銀銅が無くなるのではないかと心配になり、新井白石は貿易制限を強化した。貿易制限強化が密貿易の増加となったのである。小倉沖は島が多く、密貿易をする船にとっては都合のよい隠れ場所になった。それに長州・小倉・福岡三藩の境界でもあり、警備の統一が困難であった。密貿易船は時候によっては毎日のように現れる。現れるたびに多数の軍船を出動させて追い払わねばならない。撃沈すると外交問題になるので空包をぶっ放して追い払うだけである。一時は逃げても、すぐまたやってくる。小倉・長州・福岡三藩共同作戦も展開する。享保五年(一七二〇)までは大規模な追い払いが続き、享保八年(一七二三)ごろまで出動が続く。追い払いの基地になった小倉沖藍島の住民の生活は破壊される。小倉藩では、この中国の密貿易船を追い払うための費用は膨大なものとなり、大きく藩財政を圧迫した。
宝永四年(一七〇七)には富士山が爆発し、被害救済のため幕府は各藩に御用金の差し出しを命じ、小倉藩には三〇〇〇両が割り当てられる。藩ではさっそく各村々に、村高百石につき二両の金を割り当てた。この年、幕府は小倉藩に対して江戸寛永寺(徳川家の菩提所)の仁王門普請を命じる。この普請は二年余を費やし、そして翌宝永五年(一七〇八)には富士山爆発で被害を受けた相模(さがみ)川の川浚(さら)え工事が命じられた。また正徳二年(一七一二)には再び寛永寺の新仏殿の普請手伝いを命ぜられるなど、莫大(ばくだい)な出資が続いた。武士の掛米(かけまい)(借り上げ米―俸禄米の未支給分)は大きくなった。
幕府が新井白石の建言を用いて正徳四年(一七一四)から鋳造をはじめた良質の新貨幣(正徳金銀―慶長の古制に復した金銀の含有比率の高い貨幣)は、米価の値下がりを招き、武士も農民も生活の苦しさを大きくした。享保四年(一七一九)藩では武士に貸銀制度を設けて、生活救済に当たらねばならなかった。
そして天災は相変わらず年中行事のようにやってきた。宝永二年(一七〇五)、同七年(一七一〇)は大暴風雨で収穫は減少し、享保四年(一七一九)、同五年、六年、九年と暴風雨・洪水が荒れ狂う天候異変が重なった。特に享保五年の暴風雨・洪水では常磐橋・豊後橋などが壊れ、享保九年の洪水はそれに倍してひどく、幕府は五〇〇〇石の救援米を小倉藩に送った。
享保十一年(一七二六)の記録によると、領内に盗賊の横行がはげしくなったことが記されている。天災と厳しい年貢取り立てで治安が大きく乱れた。そしてこの年八月、突如、家中総登城が命じられ、厳しい倹約令と、これまでの献上米を廃して俸禄米の一部借り上げ、すなわち掛米を制度として実施することが発表された。