藩の意図した体制整備は、当初は合理的なコースの上を進行するかに見えた。しかし商品流通の拡大する社会状況の中で、天災による不作や飢饉の襲来、密貿易船の追い払い、幕府の普請工事の手伝いなど、藩財政の窮乏化を促進するいろいろな出来事の発生する中にあっては、もはや合理性追求の余裕は無くなってしまった。そして目の前の問題である藩経営維持のための、年貢確保と増徴に踏みきらねばならなくなってくる。しかも農村が窮乏化している真っさい中での年貢確保で、大変に困難を要することがらである。そのためには、なんといってもまず体制の維持確立こそが基本になる。
享保十三年(一七二八)の藩士に渡す俸禄米は、約一五パーセントを掛米(借り米)とすることを触れ出した。同時に農民に対しては、平均して一二・五%という高額の年貢増徴を発表したのである。十数年来、毎年といってよい天候異変で不作の中での年貢増徴であり、享保十二年には鶏卵代(高一〇〇石に対し銭四〇文を毎月徴収)という雑税も新たに設けた。
延宝六年(一六七八)の六歩上米(ろくぶあげまい)の設定以後、いろいろと新たな方法で年貢増徴を考え、ついに宝永三年(一七〇六)の水帳改正にまで持ちこむが、出費増の要因が重くなる上に連年の天災で、年貢増収策の企図も実際には大きく機能しなかったのではないかと考えられる。そこで享保十三年(一七二八)の絶対的な年貢増徴の実施に追い込まれたものと思われる。
このときの年貢増徴は、各村々の石高に対して二〇分の一、すなわち五パーセントの高が増徴されることになった。これはある村の高が一〇〇〇石であった場合、その村の免(めん)(年貢負担率)が藩のいう平均の四割であったとしたら、物成(ものなり)は四〇〇石になる。享保十三年の年貢増徴は高に対する五パーセントだから、高一〇〇〇石に対する五パーセントは五〇石ということになる。すなわち五〇石の年貢増徴分は従来の四〇〇石に比べて一二・五パーセントになる。これは藩側が説明する免の平均は四公六民であるということをそのまま肯定した場合の計算である。免が四割よりも高い村の場合の年貢増徴率は平均の一二・五パーセントより低くなるが、四割より低い村の場合は平均率を上回ることになる。免は土地の条件によって高下があるので、地味が瘠せていたり、日照や水の便などが悪く、免が低く決められていた村、すなわち田畠の収穫条件の悪い村ほど重い負担になったということができる。
また同時に徴収されることになった鶏卵代というのは、村高一〇〇石について毎月卵二〇個を拠出させるものである。しかし実際には、現物の卵を差し出すのは無理があり、一個銭二文の割で計算し、毎月四〇文を納めるものである(実際には年二回納付する)。これも結局は各百姓の持つ田畠の高(評価された生産高)に対し、一律に徴収されるもので、わずかのようであるが、藩としては年間に一五〇〇貫もの銭が新たに年貢として増徴されることになる。
この使途については灌漑(かんがい)用の土木費を補充するもの、と藩は説明している。実際はどう使われたかは分からないが、もしそうであったとしても、灌漑用の土木費は本来正規に納める年貢から支出すべき性格のものである。打ち続く天災を理由にした一種の受益者負担とでも言う理由づけがなされている。