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差別法令の意味するもの

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これは現在までの資料調査の段階では、小倉藩で最初に出された差別法令と考えられる。特定の人びとに対する差別が法令として発布されることは、社会の中に差別が制度として生まれてきたことを意味する。古代律令(りつりょう)制社会においては、良民と賤民が制度として差別されていた。しかし十世紀以降の荘園(しょうえん)の発生は律令制社会を壊し、制度としての差別は無くなった。それが八〇〇年も経った近世社会において再び復活したのである。このときは、「穢多」・「九品(くほん)念仏」「非人」を対象にして規則が出された。その内容をいま少しみてみよう。
 まず、これらの者はどんなことがあっても、他人に宿を貸してはいけない、ということが最初に書いてあり、これは同居を禁止するということである。士農工商の相互間で互いの交渉に制限はあるが、同居の禁止などはない。これは社会生活の中から、被差別部落を明らかに疎外することを目的にしたものである。社会とは士と農工商によって構成されたものであり、その社会から放り出したのである。
 被差別部落を「社会外の社会」とし、そこに住むものを「人外の人」として、村落共同体から疎外することが、制度として実現するに至った。社会の主たる生産に従事することから疎外され、雑業や雑芸能に従事して、その日の糧(かて)を得なければならない立場に追い込まれた人びとや、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理をする人びとに対する中世以来の蔑視観は、戦国期の身分の流動する過程を経てもなお生き残り、「皮田高掛役米引」を設けたり、「穢多」の蔑称(べっしょう)をもって、人びとの間に植え付けた差別意識は、被差別部落形成の素地をなしたのである。
 そして、徳川封建体制が、本質的なものとしての近世の体制をつくりあげるために、この素地は権力によって巧みに利用され、強化された。それは「皮田高掛役米引」における藩側の作為的説明や、藩政整備の段階で「穢多」の蔑称をもって人びとの間に植え付けてきた差別意識を、さらに一歩進めてついに制度化にまで持ち込んだのである。差別法令の発布によって差別が制度として確立し、強化されることになり、社会制度の中に正式に被差別部落を位置づけることを意味する。そこには弱体化する体制の立て直しがなによりも緊要であり、体制確立の基幹である年貢確保のために、その年貢負担者である百姓に対し、村落共同体から疎外された「人外の人」の存在を社会制度として公認することになったのである。同時にそれは、常に百姓を体制のなかに包みこんでおこうとする政治路線の実現でもあった。
 そして「穢多」は小倉城下町の中では、雨天の場合、竹の皮の笠以外のものを用いることを禁じられ、平日でも手拭や頭巾などのかぶりものをすることが禁止された。「非人」の場合は、雨が降ってもかぶりものは一切禁止した。服装を人並み以下にすることは、社会からの疎外を日常生活の中ではっきり分からせ、人びとに差別意識を植え付ける役割を果たす。古代律令制社会でも賤民の衣服は鼠色にしていた(鼠色の衣服は貴族の葬儀用の服装の色)。
 ほんらい汚れた仕事でも卑(いや)しい仕事でもなかった斃牛馬の処理は、〝人外の人〟のする仕事であると限定されることによって、仕事そのものと、それに携わる人びとを汚れた者とする意識を作りあげていったのである。そしてまた、そうであるから人間並みの生活様式の埒外(らちがい)に置く、という悪循環に追い込んでしまう。しかも実際には、日常は農耕による生活をしており、斃牛馬があった場合は、藩から課せられた役目としてその処理に当たっているものなのである。農耕に従事しているということは、封建社会を支える年貢負担の一翼を担っているということなのである。村々の庄屋に対しては、村人を集めてこの法令を読み聞かせることを義務づけている。庄屋のもとで、村人たちに差別意識を徹底させる教育が始まった。実に恐ろしいことが、現実の生活の中に、法令として活動し始めた。
 これ以後も体制の傾斜が深刻化するにしたがい、体制維持・確立の必要性がなおさら大きくなり、そのたびに差別政策はますます強化され、厳しさを増していくことになる。小倉藩においては享保十三年(一七二八)をもって、そのスタートがきられた。