小倉藩で最初と思われる享保十三年(一七二八)の差別法令に引き続いて、享保十七年(一七三二)には被差別部落の人びとを社会から疎外することを、一層はっきりさせる法令を発布した。
一、郡中穢多男女とも悉相改、別帳にて差し出しのこと
一、非人も右同断
一、近年、穢多、非人共、従来の猿ひき・諸勧進(かんじん)・胡乱(うろん)なる者共、外にて宿かし申さ
ざる者を引き請け、宿かし候に付き、胡乱者多く御郡中徘徊致し候趣、相聞こえ、不届きの至りに候、
向後、宿等致し候儀、相聞こえ候はば、詮議を遂げ死罪申し付くべきこと
右の内、第一項目と第二項目は、毎年庄屋が調整する宗門改帳について、穢多・非人の分は別帳仕立てにするよう命じたものである。
宗門改帳は、郡ごとに毎年行われる宗門改めの行事の前に各村の庄屋が作成し、村内各戸の家族名・年齢・戸主との続き柄・檀那(だんな)寺の宗派などを記載した帳面である。これは当初キリスト教の禁令を徹底させるために作られたが、のちに人別改め、人口調査の役割を果たすようになったものである。これまでは村内居住者は、差別なく一冊の帳面に記載されていたのに、享保十七年(一七三二)以後は別帳仕立てになった。これは享保十三年(一七二八)に出された差別法令の基本から発展して、相互に同居しないということを、戸別調査の台帳である書類の面でも、被差別部落に対する疎外を実現したものである。
宗門改帳を別帳にするよう命じた享保十七年(一七三二)は歴史上の大事件である享保の大飢饉の起こった年にあたる。享保年代は先にも述べたように密貿易船の追い払いのほか毎年のように天変地異が発生し、ついに享保十七年の大飢饉に突入する。この年は五、六月に降雨が続いて日照がなく、蝗(いなご)が異常発生して稲を食い荒らしてしまい、この被害は西国一円にわたった。
小倉藩では収穫が平年作の二割以下の村については年貢を免除したが、二割以上の村からは年貢を取り立てた。村々では食料がなく餓死するものが増加し始めた。藩では難民に粥(かゆ)の支給をしたり、時折わずかな米麦や、肥料にする干鰯(ほしいわし)などを支給したが、焼け石に水で、ついに四万人以上の餓死者がでた。この数字が正確であるとしたら、当時の人口から見てこれは大変な数字で、実に四人に一人が餓死したことになる。当然ながら、年貢負担者である農民が大幅に減少したことになる。