村内で耕作者が減っても、すなわち無主の田地が増えても、年貢上納は村単位なので村として決まっている年貢高は納めなければならず、村としては大変な窮地に立たされる。簡単に言うならば、耕作人口が減少すれば、村に残った人びとが手分けして無主の田畠を耕作し、村高に相当する年貢を納めることになる。しかし、人間の労働力には限界があるので、結局、生活を切りつめて、減少した耕作者の分の年貢を負担する。あるいは借金をして、村から割り当てられた個人別の年貢負担分を納めることになる。借金には利息を払わねばならないので、これも生活を窮迫させる要因になる。そしてまた天災が襲ってきて、窮乏は深化していく。ついに耐えられなくなった農民は、村から出奔(しゅっぽん)(夜逃げ)をせざるを得なくなる。残った村人の負担はますます重くなり、これは単純な悪循環ではなく、まさに拡大する悪循環とでもいうべきであろう。打ち続く天災による損害、餓死者による人口の減少、増大する年貢負担に耐えかねて村から出奔するものが後を絶たない。年貢負担に耐えられる農村にするために、まず農村人口の増加が図られるが、それは耕作者のいなくなった田畠に、新しく耕作者を仕立てることである。
小倉藩の場合、成立当初から、本来は解放されて独立した自営農民になるべきにもかかわらず、解放されずに豪農層のもとに温存されている名子を解放して、どんどん自営農民として無主の田地に入れていけば問題解決に近づくわけであるが、それには全く手がつけられなかった。大農経営をしている豪農層にとっては、名子の解放は名子労働の使用による剰余利得の源泉を失うことになり、名子の解放はしない。農村人口を確保するため、各藩とも、農村の者は、他領はもちろん、他郡にでも奉公に出るのを禁止する法令を何度も繰り返し発布して、農民を土地に縛りつけようと努力をした。出奔は堅く禁止するが、よそから出奔して村内に入りこんだ者は労働力として受け入れるという実態があり、この実態があるかぎり、出奔禁止の法令は空文になってしまう。
よそから流れこんできた者や、農村の二、三男などを新しく百姓として、出奔者の跡の耕地など無主の田畠に住まわせ、年貢負担の要員にしていくが、これを新百姓の仕据(しず)えという。新百姓の仕据えは、村内の百姓が集まって評議をして決め、その上で庄屋は大庄屋を通じて藩に申請している。藩は次の収穫時までの食料をはじめ、農具、種籾(もみ)などを年賦で貸し与えたり、住宅を与え、ときには牛馬も年賦で貸し与えることもあった。そしてまた場合によっては(新田などの場合が多い)、貸与でなく無償で支給することもあった。このように藩は領内の生産の維持に努力するが、裏返せば年貢確保のための施策にほかならなかった。この段階で被差別部落の人びとも新百姓に仕据えられていくが、ただ「非人」は生産に従事することを禁じられているので、新百姓として投入されるのは「穢多」だけである。
被差別部落の人びとの場合、同じ農業をしていても、村の百姓とは同一に扱われない。村の宗門帳によって差別がはっきりさせられていた。農耕に従事するからといって、「穢多」のことを百姓とは言わないのである。そしてそのことを混同しないよう、身分が違うという意識を人びとの間に強く植えつけていくのである。それは享保十三年(一七二八)の法令が明らかに示すように、雨が降っても竹の皮の笠しかかぶれないという外形を通して、差別意識の植えつけをする。そして実際にも農耕者として同一の村に住んでいても、農民たちの集落でないところに住まわされ、年貢負担以外の面では、村落共同体の一員として認めない。その住むところは、少し雨が降れば洪水になる川の縁とか、水利の悪い崖(がけ)や山かげとか、非常に条件の悪い土地である。新百姓として仕据えられる場合でも、このことは全く同様であった。村内の余り地とか、出奔百姓の跡地は普通の場合、条件のよくない位置にある田畠が多いのに、その中でもまた悪い条件の土地に被差別部落の人びとは投入されていった。村落の中のこのような条件の悪い土地に、しかも村の農民たちとは離れたところに、二軒、三軒と投入され、新しい被差別部落が次第に増加していくことになる。新百姓の仕据えは、特に十八世紀の半ばを過ぎたころから盛んになった。
被差別部落が増加し膨張していくのは、新百姓として投入されることだけであろうか。この点については疑問が残る。借金や過重な年貢で村を出奔して流浪の旅に出た人びとや、天災や災害で家を失って流浪した人びとの定着場所として、最下限の生活という仲間意識もあり、被差別部落こそ心やすく受け入れてくれ、そこに落ちついていく、ということも考えられる。藩も出奔者が被差別部落に紛れ込むのではないかと予測して、被差別部落を調査するよう命じている。
このような状態にもかかわらず、藩当局は参勤交代、江戸での華美な生活、それに商品流通の拡大と文明が進むことによるぜいたくな生活の流れなどで、藩の支出は増える一方であった。
享保十七年(一七三二)のあの大飢饉で四万人にものぼった餓死者の中に、武士は一人もいない。享保十八年(一七三三)小倉藩の江戸屋敷では、例年どおりの優雅な正月行事が繰り広げられ、国元の大惨事とは全く無縁な生活であった。正月の連歌始めの席では、
・茂き春の恵みの蔭や門の松(藩主小笠原忠基)
・初音待ぬる軒の黄鳥(支藩主小笠原忠貞)
・山々の雪は見ながら打ちとけて(前藩主忠雄室長寿院)
など、民の飢え死になど意識にすらのぼらぬ別世界で、のどかな正月を過ごしていた。
藩は大飢饉の非常事態を切り抜けるため、年貢の厳しい取り立てと増徴を実行する。年貢を取られる農民の側は、自分は食べなくとも年貢だけは持っていかれる。藩は年貢の取り立てを確実にするため、何度も倹約令を出して、倹約が美徳であると宣伝をし、他人よりも余分に働くことが、生活を楽にする道であると説く。しかしいくら倹約をし、いくら働いても、農民の手元に残る米は、つねに最低ギリギリであった。できるだけ多くを年貢で吸い上げるのが目的であるため、生活が楽になるわけはなかった。
これでは人間並みの生活とは言えず、こんにちの私たちの生活観念からみた人間並みということではない。こんにちよりはるかに低い生産力しか持たない封建社会といっても、病気をしても医者にかかれず、生まれてくる赤子の間引きをしなければ生活ができない、ということはあまりにも残酷である。自分で働いて得た収穫物は年貢として取り上げられるため、自分で作った米も食べられず、厳しい生活規制を受け、誠に苦しい生活を強いられているのが当時の現実であった。人並みの生活がしたい、だがそれは出来ない。ここには大変な不満が積み重なってくる。人並みの生活をしていない自分を人並みの生活だとして錯覚させるため、雨が降っても傘はもちろん蓑(みの)着用も許されないものがいると教えられる。結果的にはこのことが大いに自尊心をあおり、窮乏化への不満を絶対のものとしない作用をする。差別法令は為政者にとって、一つの安全弁的な役割を果たすことになった。身分階層による封建体制という社会制度を極端に利用して、その体制強化のために、あまりにも非人間的な制度を誕生させたのである。