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差別制度の確立

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元禄期(一六八八―一七〇四)から享保期(一七一六―三六)にかけて差別強化が顕在化してくるのは、幕府の政策に影響されるところもある。特に譜代藩として幕法をもって藩法とする小倉藩の場合、その傾向が強かったのではないだろうか。江戸の弾左衛門が初めて由緒書を幕府に差し出したのは享保四年(一七一九)と言われており、弾左衛門と非人頭の車(くるま)善七との争論に終止符が打たれ、非人が穢多の手下(てか)として身分的に位置づけられるのが享保七年(一七二二)である。非人に茶筅(ちゃせん)髪を強制し、かぶりものも禁ずるなど服装規制によって農工商民と区別するのも享保八年(一七二三)と言われている。
 小倉藩においても元禄二年(一六八九)に穢多の語が見られ、享保十三年(一七二八)の差別法令へと発展した。ここには被差別部落の人びとの人口が増し、その力が社会的に影響を持つに至った現実があったことを否定することが出来ないと思う。それは商品経済が発展し、皮革関係の役目と仕事や、他の雑業という形であったにしても、産業部門への進出が行われる。また一方においては窮乏による出奔農民などの落ち着き先として、被差別部落へのもぐり込み乃至(ないし)は同類化の進行が考えられる。それはもはや極(ごく)少数の集団の域を脱して、ある程度の社会的存在への成長があったと考えられるのである。だからこそ差別法令をもって差別を制度として確立し、分裂支配の実現に努める必要が生まれてきたのである。そしてこの人口増を背景にして初めて宗門改帳を別帳仕立てにすることも出来た。
 〝社会外の社会〟〝人外の人〟として社会から疎外した享保十三年(一七二八)の差別法令は、享保十七年(一七三二)の宗門改帳を別帳にすることによって、形式的にも社会からの疎外を実現した。地域(藩)によって被差別部落の成立はいろいろと多様な形をとっている。例えば隣の福岡藩の場合、藩主黒田長政が入国した翌年の慶長六年(一六〇一)に調製された検地帳に、既に「皮多村」の存在が明らかである。小倉藩においても藩主細川忠利の元和八年(一六二二)に作成された「人畜改帳」には、「かわた」をはじめ後世被差別部落に組み入れられたと思われる雑業従事者が存在していることは前にも述べたとおりである。
 皮革関係の仕事や雑業に従事する者が蔑視されていたことは、中世社会においても同様であり、特に皮革関係の仕事については、その斃牛馬の処理が宗教的な要素を加味して穢(けが)れと結びつき、蔑視の対象となっていた。戦国期の身分の流動する中で、血脈的なものは消滅しても、仕事そのものに対する蔑視観・汚穢(おえ)観は近世に持ちこされた。そして中世的な遺制を払拭(ふっしょく)して、封建的階層制の確立による近世封建体制の完成の時期(藩体制整備の時期)、社会体制成立の基盤である農村の窮乏化が既に進行し始めた。窮乏化の進行の中での体制維持の原理(農民からの貢納収奪)の確立は、なおさら緊要事となる。
 身分制度の小間切れ化の推進と、蔑視観の二重の条件は、ついに制度として被差別部落の位置づけを実現させた。それは封建的階層制による体制確立のコースと一致する。これまで蔑視観はあっても、制度としての差別ではなかったものが、体制の中に厳然として存在することになった。収奪強化による百姓の窮乏化の中で百姓としては、より下位のものの創出による身分的上昇の錯覚による収奪強化からの麻痺(まひ)、それは人間の弱さを利用した、巧みな分裂支配の実現であったのである。
 このように見てくると、享保十三年(一七二八)の差別法令は、平均一二・五%の年貢増徴を、特に身分差別の制度化を伴った身分制の強化―封建体制の強化―によって実現するためのものであった、ともいうことができる。同時に、制度としての差別の始まりは、差別意識を人びとに押しつけることの始まりであり、今後差別を拡大していく出発点になるものであった。百姓から見れば、それは幻想にすぎないのであるが、自分たちに対する圧政、逃れ道のない袋小路からの脱出なのである。
 享保年代は将軍吉宗の享保改革の時期であり、幕府は財政を充実するために、各大名から一万石について一〇〇石の割で上米(あげまい)を納めさせるとか、足高(たしだか)の制といって幕府の役職に役料を定め、その役職に就いた者の禄高が役料以下の場合は、その差額を補塡(ほてん)した。これは、揺らぎ始めた幕府政治を、官僚制度の強化によって立て直そうとするものである。そして官僚制度の強化による民心の動揺を防ぐため、目安箱を設けて人びとの意見を直接に取り上げる形を実施した。小倉藩でも幕府政治の意をうけて目安箱を設けた。要は官僚体制の強化をもって年貢の確保・増徴を企図したもので、小倉藩の場合は、前に述べたように年貢を増徴し、鶏卵代という新しい名目の雑税が設けられるということが、この時期に実現したのである。