小倉藩では藩士の掛米は続き、商品流通の拡大はいよいよもって生活を苦しくする。年貢増徴の基礎を固めるため、大里(門司区)・猿喰(さるはみ)(同)その他で新地の開拓も行われる。新地には特別に年貢減免の優遇措置を講ずるなどの助成はするが、藩が自分の手で大規模な新地開拓をするまでには至っていない。
商品流通は農村に商品作物の栽培を促すとともに、これら農村商品を取り扱う大商人が、農村の中から生まれてくる。行事(ぎょうじ)(行橋市)の玉江家(飴屋(あめや))はもともと百姓であったが、宝永六年(一七〇九)に飴屋を始め、やがて綿実(わたざね)商(綿の実から油を絞るため、繰綿(くりわた)をつくった残りの実を買い集める商人)を始め、これを足場に一七四〇年ごろまでには領内の綿実座の中で最大の実力者にのしあがる。十八世紀の中ごろには葛蠟(くずろう)・鶏卵などを買い集めて大阪に登し、戻り船には雑貨や日用品を積んで帰り、藩内で売りさばいた。同時に質屋・酒造業・醬油醸造と半世紀の間に藩内第一の実力を持つ大商人に成長した。享保の大飢饉を契機として、農村の人びとに金を貸し、その質物として田畠を受けとり、土地の集積もしており、農村の窮乏化が大商人を生む鍵(かぎ)にもなったのである。
元文三年(一七三八)は午(うま)年なので、人別改めを行って人別帳を幕府に提出する年に当たっている。この年三月、小倉藩では享保十七年(一七三二)の宗門改帳を別仕立てにした前例にならい、穢多・非人の人別帳は別帳に拵(こしら)えるよう達した。被差別部落を共同社会から疎外しようとする藩側の意志は、着々として定着していったのである。元文三年(一七三八)の藩からの達しを見てみよう。
一、このたび御領内人数相改め、公儀へ差し上げられ候、よって御領中僧俗男女当歳子に至るまで壱人も
残らず、歳・名まで委細(いさい)書き記し差し出すべく候、改め方の次第、別紙相記し差し出し候
一、寺院へは寺社奉行より申し渡され候間、その村の庄屋へ書付請け取り、村帳に相記し差し出し申すべ
く候
右、彦山の儀は別段に出し候間、村方より掛け合いに及ばず候
一、手永の帳面出来の上、大寄帳壱冊仕立て相添え差し出し申すべく候
一、召仕(めしつかい)の男女、別帳仕立て申すべく候
一、穢多・非人、これまた壱人も残らず、別帳仕立て差し出し申すべく候
右の通り、来る四月廿九日までの内、間違いこれ無き様に念を入れ帳面相記し差し出し候様、御申し付け
これ有るべく候
午(うま)の三月十五日