享保期の天災・飢饉、特に享保十七年の大飢饉は藩財政にとっても大きな痛手を与えたことは想像に難くない。藩としてはなんとしても早急な体制確立が最大の必要事であった。大飢饉による農村の荒廃から、ようやく立ち直りを見せ始めた元文期(一七三六―四一)、藩は早くも年貢確保の手段を講じてきた。これまで年貢の収納に当たっては、不作の田や村には検見役人を派遣して実態を調べ、不作の内容に応じて年貢高から引いていたのであるが、検見をやめ、定まった免(年貢を納める率)のとおりに徴収することにしたのである。しかし実際には作不作があるので、過去の実績によって郡内の平均を出し、これをもって郡の納める数量を決めるということにしている。郡としては定まった量を納めるため、各村に対しては余分に割り掛けた量を納めさせ、それを財源にして不作村の納め不足分を充足するために貸し出した。これを惣定免制(そうじょうめんせい)といい、まず田川郡で実施され、約二〇年続いたといわれている。これは各村(すなわち百姓)から見れば明らかに納米の増加となる。また郡内での融通ができない場合は、大商人や他領の商人・豪農などから借金をしなければならない。藩の年貢徴収は安定するが、農村は窮乏を加えていった。