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犬甘の家老就任と差別政策の具体化

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このような中で、幕府は安永七年(一七七八)差別法令を全国に発布する。小倉藩ではこの法令の出る一年前の安永六年(一七七七)犬甘(いぬかい)兵庫知寛(ともひろ)が家老に就任して、疲弊に陥っている藩財政立て直しの大改革を始める時代に入っていた。犬甘の改革の内容は先に述べたが、農民が嘆願のため大挙して小倉城下に押し寄せるという状況に至るまで、農民の犠牲によって藩財政の立て直しを推し進める。農民に強いる犠牲が大きければ大きいほど、それは絶えず差別の強化を伴って進行するということが、実に露骨に現れてくる。この安永七年の差別法令をてことして、改革―農民へのシワ寄せ―をばく進させたとも考えられる。まず、安永七年の差別法令から見ていこう。
 幕府は被差別部落に対し、「穢多・非人風俗の儀に付き御触れ書」の法令を発し、小倉藩はそれに添え書きの形で追加法令を出す。幕府が発した法令は次のような内容である。
 
  近ごろ穢多や非人たちは風俗が悪くなり、百姓や町人に無理・勝手な行いをしたり、百姓の風俗をして旅
  宿や煮売り屋や小酒屋などに立ち入っている。これを見咎(とが)めると言いがかりをつけてくる。百姓・
  町人はこんなことになると外聞も悪いと思い放って置いたので、いよいよ増長して勝手な振る舞いをする
  ようになった。中でも中国筋の穢多・非人・茶筅(ちゃせん)の者どもは、盗賊や悪党の宿をしたり、盗み
  物を売り捌(さば)く世話をしたことなども大方判明している。先に穢多が申し合わせて村々へ盗み入った
  者たちについては、引き回しの上、死罪などの処罰を申しつけたが、やはり風俗は少しもよくならないと
  いうことを聞いてくる。盗みや悪事をした者はもちろん、百姓・町人にわがまま勝手な振る舞いをした者
  や、百姓・町人のような風俗をした者たちは厳しく処罰する旨を、かねてから穢多・非人・茶筅の者ども
  に厳重に申し渡して置き、これに背く者があれば、幕府領については代官が手代や足軽を派遣して召し捕
  り、勘定奉行に報告するよう。各藩についてもこれに準じて取り扱うよう。もし放って置くようなところ
  があれば、最寄りの幕府の代官が手代や足軽を派遣して召し捕ることにする。そのようなことになると、
  それはその藩主の落ち度である。
 
 以上のような幕府の達しを、小倉藩では郡代(領内の農村行政に当たる長官)の名前をもって各郡の行政を担当する筋奉行に通達した。筋奉行から大庄屋へ、大庄屋から各村々の庄屋へと、それぞれ書き写して伝達され、そして庄屋から村々の住民へと伝達された。
 そしてこのとき小倉藩では、この幕府の達しに添えて、さらに詳細な内容の達しを、領民一人ひとりに漏れ落ちなく徹底するよう指示した。その内容は次のようなものである。
 
 幕府からの達しによれば、諸国の穢多や非人は近ごろ風俗が悪くなったので、厳しく取り締まるよう仰せ出された。そこで小倉藩としては、この幕府の達しとともに、なお守るべきことがらを添えて次のように達する。
 一、郡中の穢多・非人は我がまま勝手な振る舞いが多く、百姓家などの戸口へ立ち入るようなことがある。
今後は許しなく戸口から内へはいらないこと。
 一、小倉城下町への立ち入りは日中だけに限り、夜中は城下町への出入りを禁止する。
また雨天の場合は菰(こも)をかぶり、蓑・笠や手拭などのかぶりものをしないこと。
 一、神社やお寺、そのほか人びとがたくさん出ているような場所に入り交じったり、見物人や道を歩く人の
妨げにならないようにすること。
 一、穢多は牛馬の処理をしたとき、そのあとの残りものを置き捨てにせず、土中に埋めておくこと。
非人は人の余り物をもらって生活している者なので、その心得で物乞いをすべきなのに、近年はそのこ
とを忘れ、祝儀・不祝儀の家や葬式の場所で、人が与えないのに無理に要求したり、大声を出して不当
の主張をするなどのことがあると聞いている。これは不届き至極(しごく)のことである。以後、このよ
うな我がまま勝手な振るまいがあった場合は厳しく罰することにする。
 一、非人が小屋から出るときは、必ず首に袋をかけて歩くこと。命じられた役目で出るときも、この姿を変
えてはいけない。
また百姓の身なり風俗に紛れるような衣服を用いず、帯は男女とも幅の広いものは禁止する。小さなも
のか、縄の帯をしめること。
 一、神社で願解(がんど)き相撲がある場合、その場所に入り交じったり見物をするというようなことが時々
あると聞いている。これは不届きのことである。以後は勧進(かんじん)相撲の場所であっても、立ち入
りは固く禁止する。
 一、歌舞伎や繰(あやつ)り人形などの芝居(しばい)興行の場合は、役者の方から穢多頭へ相応の祝儀を差し
だして挨拶(あいさつ)をしてきている筈(はず)である。祝儀の多少にかかわらず、挨拶があった場合
は、芝居興行の差し障りになるようなことをしないこと。渡世(とせい)のために外出する場合でも、
芝居興行の付近は遠慮すること。
付けたり
他郡の穢多が見物にきた場合は、芝居があっている郡の穢多頭へ照会し、その指図に従うこと。
 一、前々から定めている通り、非人が間違った行動をしないように、常々穢多が取り締まることになってい
る。非人はこの定めに背くことのないようにすること。もし穢多が勝手なことを言った場合、非人はそ
の村の庄屋に申し出ること。
 一、非人は前々から申し付けて置いたように、田畠を作ってはならないことはもちろん、もし人に雇われて
も、荷い物をして持ち歩いたり、もちろん田畠の作業などをしてはいけない。
 一、火災のときは、その近くにでも決して立ち入らぬこと。
 一、挙動不審の者は申すまでもなく、そのほか猿まわし、人形まわし、他国からいろんな勧進で回ってくる
者に対しても、休息もさせないこと。
 一、近年風俗がみだれ、厚鬢(あつびん)にしたり、長元結(ながもとゆ)いなどで髪を結(ゆ)うなどは身分不
相応のことである。以後このようなことは即刻に改め、藁(わら)か引き裂き紙で髪をくくること。もし
これを守らず、百姓・町人などに紛れるようなことをした場合は、古法の通りに厳しく処罰することに
なる。
 一、他領は申すまでもなく、他郡へも往くことは禁止する。どうしても行く必要が起こった場合は、庄屋か
穢多頭へ申し出、その指図に従うこと。
□□の非人は、お城の濠や不浄のものの取り片付けを前々から役目としているので、いよいよもってそ
の方式を守ること。

右のことについては、各村の庄屋は穢多や非人を残らず呼び出し、幕府からの達しも読み聞かせて、手堅く申し付けること。結局おろかな者たちなので、万事に手ぬるく許しておくと、人前もはばからず勝手なことをするようになると思われるので、今後は些細(ささい)なことでも不相応なことがあれば、厳しく取り締まるように命じてあるから、よく心得て置くこと。尤も、幕府の達しやこの文面のことがらは、ひと通り読み聞かせたばかりでは理解できないむきもあるので、書付の趣旨の重大なことをよくよく納得させること。もし背く者があれば小屋を焼き捨て、郡外に追放すること。
 このたびの達しはもちろん、前々から申し付けた掟筋の趣旨を、庄屋は毎年一度みなに申し聞かせ、委しく申し付けること。
 
 これは享保十三年(一七二八)の差別法令から見ると、随分と差別が強化されている。雨天の場合は竹の皮の笠をかぶるよう定められていたものが、竹の皮の笠もいけない、菰をかぶるよう規制が厳しくなっている。そして日常の服装規則としては、髪の元結いを藁か引き裂き紙にするように命じられている。一見して被差別部落の者であることが分かる服装、これが差別意識を人びとに植えつけるには、いちばん手っ取り早い方法なのである。また「穢多」の「非人」監視が強調されている。これは宝暦十年(一七六〇)の達しにもあったが、「穢多」が「非人」より上位にあることを再度確認したものである。一定の条件のもとでは足抜きができて、「非人」に落とされる前の身分である百姓や町人にかえることができる「非人」にとっては、絶対に固定された「穢多」身分の者より自由だとする考え、すなわち優越感を持つわけで、それが身分的には「穢多」の下位に置かれることにより、相互に反発させ、分裂を策した実に巧妙な分裂支配の実態をここに見ることができるのである。