この幕府の触れ書きによれば、盗賊はじめ風儀の悪いのは被差別部落の故にされている。しかし小倉藩の実態は先に記したように、寛延三年(一七五〇)あるいは宝暦十年(一七六〇)の「達し」に見られるように、被差別部落がその原因をなしてはいない。むしろ被差別部落の人びとに、盗賊をはじめ風儀の悪いものに対する監督的役目の遂行が強調されている。
安永七年(一七七八)の幕府による「穢多・非人風俗の儀に付き御触れ書」は、動揺する封建体制を身分制度を厳しくすることによって食い止めようとするものである。特に小倉藩においては、危機的様相にまで立ち至った封建社会の立て直しが、何よりも急務であった。幕府の触れ書と同時に達した小倉藩の添え書きが、それを証しているし、以後、家老犬甘兵庫知寛によって遂行される強引な諸改革による体制強化策が、それを物語っている。だから結果から考えるならば、安永七年の幕府の触れ書と小倉藩の添え書きを梃子(てこ)として、傾斜しつつあった封建体制を身分制の強化―被差別部落に対する差別の強化―によって、体制の維持・強化へと進めたものと言い得る。
差別はまずいちばん弱いところから実施される。そして、次々に強い方に向かって拡延され、強いものが弱化されることになる。それは差別を実施するということ自体が、体制維持のための分裂支配であるからそうなるのである。最も弱い最下位の身分のものに押しつけられた差別は、次はその上に位置づけられた身分のものに拡延されることになる。ほんとうは他人ごとではない、明日はわが身にふりかかることとして、連帯して差別に対する抵抗を行うべき原則的なことがらなのであるが、分裂支配―身分制社会―によって生まれた身分制度は、少なくとも自分を最下位と認識しない幻想と強固な体制への諦(あきら)めを生み、連帯の成立する余地を消し去ってしまうのである。
このこと(差別の拡延)は安永七年の小倉藩の添え書きの中に、はっきり現れている。もちろん安永七年の場合だけではない。以後、年代が下がるにつれて触れ出される生活規則の倹約令や差別法令すべてに対して言えることである。享保十三年(一七二八)には同居を禁じて、社会から疎外するスタートがきられ、安永七年には許可なく百姓家の戸口から中へ入ることが禁止され、寺社や催しものの場所その他、大勢の人が集まる場所への出入禁止、夜中に小倉城下町に入ることなどが禁止された。同居の禁―社会からの疎外―が具体的に広がってくるのである。そして雨天の場合、穢多は竹の皮の笠が許されていたのが取り消され、菰(こも)をかぶるよう規定される。また享保十三年(一七二八)非人は藁か引き裂き紙で茶筅髪にするよう定められていたのが、安永七年(一七七八)には穢多も藁か引き裂き紙で髪をくくるようになる。これは茶筅髪ではないにしても髻(もとどり)を結ぶ材料は非人と同様のものに拡延されてきたのである。