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うち続く天災と財政立て直し策

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安永七年(一七七八)の差別法令は家老犬甘兵庫知寛が、以後の改革を進める上で、結果的にはその地ならしのような役割を果たすことになる。それでも犬甘の当初の政治は、かなりまともなコースに乗せようと努力した跡がうかがえる。
 犬甘は安永八年(一七七九)勝手方引受の家老になり、藩政を推進する中心の座につく。犬甘はまず家中の武士に対する知行・扶持米の支給を全部やめてしまったと言われている。それは禄高に関係なく武家の構成人数(家族・家来・下男・下女など)に対して、一人一日に五合の米を支給したと言われている。これを面扶持制(めんぶちせい)というが、これを三年間実施した。藩士の中で禄高の高い者は大きな不満を持ったが、藩財政は幾分か息を吹きかえすことができた。
 そして次には藩の計画による新地開発に手をつける。年貢増収の基本は新しく田畠を増やすことがなんといっても第一である。ほんとうは出奔百姓などで耕作者のいなくなった田畠に、新しく百姓を入れていけばよいのであるが、各村々は村内の実情がどうであれ、納める年貢は一定しているので、藩としてはそのような苦しい村の実態には目を閉じて、新たな年貢徴収源になる新田の開発を進めるのである。
 天明元年(一七八一)から、小倉城の外濠の西側の沼沢(しょうたく)地を埋め立てる日明(ひあがり)新地と、紫川の常盤橋上流の東西沿いを埋め立てて(二万三〇〇〇坪)得た新地、また沼地であった中島の新地開拓が始まった。これには企救郡の農民が交替で動員された。農繁期になると小倉城下町の町人が農民に替わる。そして寛政四年(一七九二)からは大里村庄屋石原宗佑に命じて曾根新田(八〇数町歩)の開作をすることになった。
 しかしそれまでの疲弊と、一七八〇年代以降の連年ともいうべき天災の発生のため、藩の財政はそのようなことでは容易に回復はされない。それに新地開発のためには、その作業に駆り出される農民としては、大変大きな負担になる。結局は天明・寛政期(一七八一―一八〇一)の小倉藩の改革が、より一層の差別強化による体制確立を目指して進行することになった。天明年間(一七八一―一七八九)は天明三年(一七八三)以来、連年の凶作続きであった。天明三年は凶作のため検見引きが大きく、年貢は大幅な減収となった。天明五年(一七八五)は凶作に疫病の流行も加わり、天明六年(一七八六)は暴風雨で凶作、七年(一七八七)も凶作で飢饉が起こり、八年(一七八八)は大風雨のため各所で洪水が起こった。小倉藩の年貢収納は通常一〇万~一一万石程度であるが、天明七年は五万石余の減収となり、年貢収納も八万石に満たない状況になった。このような状況の中で、天明七年には安永七年(一七七八)に出した差別法令を、再度発布して身分制度強化を図り、体制維持に腐心する。
 天明九年(一七八九)は寛政と改元されるが、相変わらず天災は続き、この年は干魃(かんばつ)で凶作、三年(一七九一)も同様な天候であり、四年(一七九二)は大雨洪水で凶作、六年(一七九四)は干魃、七年(一七九五)は虫害、九年(一七九七)は洪水と凶作の年が続く。とくに寛政四年の洪水はひどく、幕府に一三万石の損毛届を出したというほどの不作になった。