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倹約令と差別法令

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このような状態のため、寛政三年(一七九一)十二月、犬甘は武士・郡中居住の者に対して厳しい倹約令を出し、同時に被差別部落の人びとに対する極端な差別法令を作りあげる。そして寛政四年(一七九二)二月これを触れ出した。まず郡中居住の者に対して出された倹約令の中で、主な事項をあげると次のとおりである。
 
 ・近年は百姓の風俗が悪くなり、農業に励むことを忘れている、心得違いのないようにすること。
 ・何事によらず徒党がましいことの禁止。藩の政治向きなどを譏(そし)ることも徒党と同様である。
 ・隠し田、年貢完納以前に米を売ること、博奕、盗みなど見かけしだい申し出ること、隠していて後で分
  かった場合は村中の罪とする。
 ・訴えごとは庄屋に申し出、庄屋から大庄屋に申し出るのが筋である。もし取り上げてもらえなかった場合
  は役人へ直々に申し出てもよい。そのような手続きなしに越訴(おっそ)をした場合は、罪科として取り扱
  う。
 ・百姓は耕作に励み質素倹約を第一にすること。
 ・武士に対し我がまま勝手な振るまいをせぬこと。小倉城下町の内では雨天でもないのに笠・頭巾・手拭な
  どのかぶりものをせぬこと。馬子は馬を道につなぎ放しにしたり、往来の妨げにならぬようにすること。
  武士と行きあった場合は、道の片側に寄り慎んで歩くこと。
 ・踊り・操り人形・その他芸人を村内に留めたり、宿をさせることの禁止。
 ・酒の忍び売り禁止。
 ・郡中・宿町の商人は、郡中に不似合いのものを売ることの禁止。
 ・他国へ奉公に出ることの禁止。
 ・碁・将棋その他遊芸をすること堅く禁止。
 
 また農民の衣服などについても、前々からの達しが守られていないことを理由に、重ねて触れだした。当時の人びとの生活の隅々にまでわたって、こまかく規制している。これが当時の人びとに対する生活規制の内容であるから、主なものを分かりやすく記す。
 
 ・大庄屋・子供役とその妻子の衣服は、木綿・半晒(さらし)・縞地の布を用い、下着・帯・襟・袖口に至る
  まで絹類・晒布は禁止。
 ・庄屋以下百姓とその妻子は、木綿地布を用い、帯・襟・袖口に至るまで絹類は禁止、また衣類の染色は何
  色でもよいが、ちらし付きは禁止、紋付は自由。
 ・大庄屋・子供役・社家・山伏・医師とその妻子は下駄を用い、庄屋以下は竹の皮の草履とするが、雨天の
  際は村内に限りひきわり下駄を使ってよい。下男下女は草履ばきであるが雨天の際は屋敷内に限りひきわ
  り下駄を許す。
   木綿や紙の合羽(かっぱ)は大庄屋・子供役・社家・山伏・医師は用いてよい。大庄屋・子供役とその妻
   子は傘・編み笠を用いてよく、社家・山伏・医師とその妻子は傘・菅笠(すげがさ)を用いてよい。その
   他の者は粗末な竹の皮笠か蓑(みの)を用いること。
 ・染物は郡内の紺屋(染めもの屋)で染め、他所に出すことは禁止。
 ・紺屋は、無地か粗末な形紋に染める注文は受けてもよいが、ちらし付きや高価な染めものの注文を受けて
  はならない。
 ・大庄屋以下百姓の妻子は、べっ甲・水牛・象牙の髪の差し物は堅く禁止。
 ・伊勢詣り・六条詣りは一カ年に一手永から一〇人以内、親子兄弟であっても餞別(せんべつ)や土産のやり
  とり禁止。
 ・祭りは一村限り、他郡・他村・小倉の者など、たとえ親子兄弟でも招いてはいけない。
 
 このように厳しい生活規制の触れを出す。これは人間生活の最低の限界を越えたものである。ところが被差別部落の人びとに対しては、もっと極端な厳しい規則を行う。その内容は次のとおりである。
 
 ・穢多の住んでいる所には村方から立ち入ることもないので、近ごろは勝手なことをしているようである。
  他国の穢多と縁を結んだり、猿楽(さるがく)や勧進の者が自由に出入りするなどは堅く差しとめる。他国
  へ行ったり、他所から来た者があるような場合は必ず庄屋にうかがい、指図を受けること。
 ・穢多の衣服は無紋の青染めを着用すること。形付や紋付など百姓に紛れるようなものを着用すると処罰す
  る。
 ・非人については穢多から指示させていたが、近年これが緩み、穢多の指示に従わないものがおり不届きで
  ある。穢多が無理な事を申し付けた場合は庄屋に訴え出ること、また非人が穢多の申し付けに従わない場
  合は、穢多より庄屋に申し出ること。
 ・牛骨を持ち歩かないこと。
 ・穢多は穢多仲間で用を達し、賃銭を支払っても非人を使用してはならない。
 ・非人は穢多の手下(てか)として支配することになっているのに、その支配を拒否するようなことがあった
  ら庄屋に訴え出ること。
 ・穢多は絶えず非人の小屋を見回ること。