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青染めの着物

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凶作続きの中での倹約令は、表面だけを見ればそれなりの意義があるが、実際には連年の凶作にもかかわらず、年貢収納を強行するための措置にほかならない。そして倹約令は、農民が消費を抑制することから生みだされる余剰の吸収、すなわち収奪強化の実現となるが、それだけではないのである。
 それは同時に日常生活の中での生活様式の格下げになっていく。それぞれの身分に対して生活様式を規制することによって、身分制を具体的に明らかにするものなのである。だから倹約令というものは、階層的な封建制の強化確立のために機能する。そして同時に、被差別部落に対して、より一層差別を強化する差別法令の発布が随伴するのである。
 これまでも見てきたように、天明・寛政期(一七八一―一八〇一)のような凶作続きは、大きく体制に揺さぶりをかけてくる。それだけに体制確立の必要性はなおさら深刻化しており、そこにはなりふり構わぬ人間無視のみが、封建体制維持の救世主として登場してくるのである。寛政四年(一七九二)の差別法令は、このことを象徴的に物語っており、その意味からして画期的な内容を持っている、ということができる。その最大のものは、穢多に対する青染めの着物の着用令に代表される。
 かつて七世紀以降に実現した律令体制社会の、賤民の最下層に位置づけられた私奴碑(しぬひ)は、貴族が葬儀に際して着用するねずみ色の衣服の色をもって服装とさせられた。身なり姿(服装)の規制は、日常生活の中から常時にわたって身分差別を実現する最も効果のある方法であり、身分制度の定着に最もよく作用するものなのである。寛政四年(一七九二)に差別法令による、この極端な人間無視である青染めの着物を穢多身分に強制したことは、農民に対する倹約令の励行をいっそう有効にすることになる。
 天明(一七八一―八九)以降の連年の凶作と、ときに随伴して起こる飢饉は、農民の居村からの離脱―出奔―を増加させたことは想像に難くない。幕府では天明七年(一七八七)の飢饉に際し、無宿遊民化したものを被差別部落に送りこむ政策を出している。小倉藩では凶作で生活できなくなり(年貢が納められなくなり)出奔者が出ると「日ごろから身持ちがよくなく、このたび出奔をしたので、これを搜したが、行方知らずであった」という届けで、村の人別帳から外しているが、その内には非人化していった者があったことが考えられる。寛政四年(一七九二)の差別法令で、青染めの着物の着用以外の各項目は、穢多による非人の統制強化が主な内容となっている。
 ここには、出奔者の流浪→非人化→非人の増大→非人勢力の強まり、という図式の成立が考えられる。穢多に非人統制の役目を持たせたことは、穢多身分成立の要因の一つをなすものであると思う。そして青染めの着物の着用という極端な差別は、片方においては非人を統制する役目を強調することによって、被差別民内部の分裂に拍車をかけ、また一方では非人勢力の強大化防止を目的とする政策の併用という巧妙さを見落とすわけにはいかない。