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藩主忠固の就官運動

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六代藩主忠固(文化元(一八〇四)~天保十四年(一八四三))は、播州(現兵庫県)の安志藩の小笠原氏出身である。寛政六年(一七九四)に五代藩主忠苗の養子となり、文化元年、忠苗の隠居にともない藩主となった。藩主就任とともに、忠固は儒学者の上原与市を侍講として採用した。また、忠固は文化八年(一八一一)に、朝鮮使節の応接の正使を幕府から命じられた。副使の播州龍野藩主脇坂氏とともに対馬に渡って、その任務を果たした。この外交的な事業を終えてから、忠固は心中ひそかに幕府の老中職に就こうと考え、家老などにその意向を伝えた。ここに文化の変の発端があるとされている。
 この文化の変は、「白黒騒動」とか、「小倉御家中騒動之事」・「戊年騒動」などいわれている。藩主忠固の野心が事の発端だとする記録は「彦夢物語」・「豊前小倉聞書」のみであるが、この事件に関する記録は多い。主として『小倉市誌』の上巻と続編に掲載されていて、紹介しておくと「中村維良日記」(北九州市立博物館から刊行された『中村平左衛門日記』)、「黒田新続家譜」、「木村氏記録(小倉御家中騒動之事)」、「吉田澹軒漫録」、「豊前小倉聞書」、「戊年(戌カ)騒動記」、「彦夢物語」(『豊前叢書』第六巻)などである。これらの文献は色々な立場で書かれたものであるが、粉飾の多いものもあり、また伝聞・聞書の部分も多く、その真相を明らかにすることは容易ではない。
 ここでは、「彦夢物語」と「豊前聞書」・「戊年騒動記」を参考にして述べたい。
 藩主忠固は、老中に昇進したい希望をもっていることを家老らに伝えたところ、小笠原出雲(はじめ帯刀、当職―筆頭家老、財政担当)は反対、小宮四郎左衛門・伊藤六郎兵衛・大羽内蔵助・小笠原蔵人は大いに賛同した。そこで、やむなく出雲は猟官運動に奔走し、幕閣に多額の贈賄を行った。このために藩庫は底につき、文化十年(一八一三)には家臣の俸禄を二分の一支給、いわゆる「半知」となる有様となった。結局、この猟官運動は金銀の浪費に終わり、朝鮮使接待の功で侍従に昇進しただけだった。それでもなお、忠固は当家の家格である帝鑑間(ていかんのま)詰から、溜間(たまりのま)詰の家格を望んで、さらに贈賄活動をさせた。そのうち、家臣の中で、出雲に追随する渋田見主膳・鹿島叶らが次第に専横な振る舞いにおよぶようになり、反対勢力を冷遇するようになった。こうした中で、藩主の信任の厚かった儒者の上原与市が、自分の権勢を築くべく、家老の二木勘右衛門・小笠原蔵人・伊藤六郎兵衛・小宮四郎左衛門の四老を動かして、主流派の出雲と対立させようとした。こうして家臣団は二派に分かれて相争うようになった。
 九月長崎奉行衆が大里を通過した際「小笠原大膳太夫家中」の名称で落とし文(落書き)があった。
 
  こりゃ殿よ をのが昇進にまなこくらみ
  国の困窮白川夜舟 大勢の人の恨みが数積で
  とののあたまに いんま喰らいつく
 
と三の丸常盤藤右衛門の屋敷の塀にあり、また、城下門司口の塀には
 
  亀殿が小石川からはいあがり
  あんじ顔してをたまりはない
 
など(「戊年騒動記」『小倉市誌』上巻七一ページ)、中村平左衛門をして「去冬以来、恐れ多き次第の楽書(筆者注、落書き)これ有り、この烽火(のろし)もこの悪党の仕業との世評」(文化十一年一月十四日)と記していて、落書きと狼煙などの騒動があったことが知れわたっていることが分かる。門司口の落書きは、忠固の幼名が亀吉で、小石川は父の信濃守の江戸屋敷をさし、またあんじは播州安志藩をさしている。安志藩から当家に養子に来たこと、溜間詰などにはなれないとあざけっているのである。『中村平左衛門日記』の日付の日には、足立山にある吉見陣の烽火があがり、「言語道断の騒動」となった。これは、これから表沙汰になってくる文化の変の、庶民が最初に出会った出来事なのである。騒ぎは、「虚火」として、片づけられて鎮静化したが、なお一層庶民の知らないところで小倉藩家中の内部分裂は不穏な状況にあった。
 文化十一年二月、小笠原蔵人が家老に昇格した。三月には、家老の一人伊藤が上原を伴って、藩主忠固に出雲の就官運動のやり方、家臣の困窮状態を訴えるべく、江戸へ出発した。しかし、藩主にも会えずにむなしく帰国している。ところが、七月に、突然、出雲が小倉へ帰国して、小宮・伊藤・小笠原の三家老と協議した。そして、再び江戸へ出発した。九月に、今度は藩主忠固が帰国してきた。
 これを機に、国元の小宮・伊藤・小笠原の三家老は、出雲に従って権勢を募っている鹿島・渋田見・小笠原仲・絹川などを罷免するよう、忠固に要求したが受け入れられず、そこで次善の策として、渋田見を残して後の三人を退けるよう進言して受け入れられた。ところが、この渋田見が下城途中で襲撃され、やがて死去するに至った。その間、主流派家臣はことごとく格下げされて、藩の中枢から追放された。ここに反主流派といわれる三家老の実権が確立した。
 こうした国元の動きを察知した出雲は、急遽、江戸を出発して十一月ひそかに帰国し、藩主忠固と相談して、実権を旧に復すべく十一月十六日、城の鉄御門を閉鎖して、藩中枢から追放された者を再登用し、渋田見襲撃事件の糾明に乗り出した。その後、出雲による大がかりな粛清人事が行われた。