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反主流派の脱国

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このため反主流派は隣藩黒田領の黒崎宿へ出向いたが、この者たちを黒組、出雲に味方した者を白組という。「白黒騒動」はこのように名付けられた。十一月十六日に黒崎宿へ赴いた者の言い分・事情を第35表にした。各記録に共通している言い分は、城門の鉄御門を閉鎖して、われわれ(反主流派)を締め出した出雲の強硬策に対しての反発となっている。この鉄門とは本丸の南に大手門口、西に搦手口門があって、その中に鉄門があり、「一般の臣下家中の者は鉄門より登城す」(「藩政時状記」『県資』第五輯六八二ページ)といわれる門を閉鎖した出雲の粛清行動に対する反発であった。
第35表 黒崎宿に赴いた者(出国者)の言い分
出 典黒崎へ立ち退いた理由・事情
忠固公年譜草稿小宮ら四家老を登城差し留め、最前退役の者どもにわかに帰役、四家老ならびに近来役儀仰せつかった者を退役にした。
中村維良日記家老小宮四郎左衛門、同伊藤衛守、小笠原蔵人、二木勘左衛門は登城差し留め、先日御役任命者は罷免、先日御役罷免者は復役、槻御門と鉄御門を〆切り……言語道断之騒動
黒田新続家譜四家老からの手紙で、「拙者ども残らず登城を止められ、城門を閉じて……人心に背きし者の取斗らい故、異変の形にて仕方なく黒崎へ罷越し」と黒崎から帰国後に伝えている。黒崎到着時は、「諫言承引なき故に国を出た」と伝えた模様。
木村氏記録出雲と御家老の双方の個条書きを、忠固の前に差し出して対決、家老側は申し開きできず、帰宅途中で申し合わせて黒崎へ立ち退いた。
吉田澹軒漫録出雲は家中不折り合いの理由を我々家老にありとし、頭立ちの者を転役させたら家中静謐するとして、賞罰処遇を断行し、我らの登城を困難にした。そこで、小宮宅で相談の上、出国を決意。
豊前小倉聞書小宮四郎左衛門一人に登城の下命があり、小宮は登城して11月15日の転役等の賞罰処遇などを忠固に諫言したが受け入れられず。そこで小宮は同役家老衆へ相談すべく下城。その時点で城門を閉鎖。そこで家老衆が門番を通じ登城を申し入れたが受け入れられず、終には、家老衆の勤方は思し召しにかなわず、早々引き取り、慎みを命じられた。そこで家老衆は嘆息し、御家運も尽き果てりと出国を決意。
戊年騒動記11月16日早朝、鉄御門を〆切り、猥りに通行させず、そして評定所で上原与市・直円之輔・大輪堅助らの取り調べの用意があった。そこで上原らは家老にすすめて、出国を決意させた。
彦夢物語16日早朝、出雲は使者を四老によこし、「家老四人とも家老職を罷免する」旨を、その他の家臣らも遠慮を申し付け、鉄門を閉じて絹川らに警固させた。そこで、四家老とも登城に及んだが、入城を果たせず、小宮宅に彼ら一党結集し、善後策を論じた。上原は城に攻撃をかけるべしと主張した。長坂源兵衛は「君は三度諫めて用いざる時は、臣其の国を去るといえり」と主張し、一同に受け入れられ、出国を決意。

 出国した者は第36表のとおりである。これによると家臣八九人、従者を含めると三五八人となる。(他の資料でも同じぐらいの数である)。家臣団の約四分の一が出国したことになる。そして何よりも、家老が四人もおり、重臣も少なくない。「小笠原の家中は、信濃、下総古河、信州飯田・松本、明石、小倉で召し抱えられた者に大別できる。此の内、信州飯田・松本と小倉で召し抱えられた者は概して禄高が低かった。上原の指導によって黒崎に立ち退いた八九人を出身地別に見ると、
 
 信州飯田・松本   三七%
 小倉    三三%
 明石    一七%
 信濃    一三%
 
となる。(中略)禄高の低い者が多く、出雲の濫費の被害をもろに受けての批判、不満の出国の行動といえる」(米津三郎「小倉藩『文化の変』に関する一考察」『歴史評論』七四号)。そして、黒崎宿の代官に使いを遣わして、出国の趣旨を伝え、しばらく留まる便宜を請うた。出国した理由は、当藩の親戚筋にあたる肥後細川家に訴え、国家静謐(せいひつ)を図り、公儀にも相談する行動であると述べ、福岡藩領を通過したい趣旨を伝えた。この乱の経緯は複雑な様相を呈するので、ここでわかりやすくするために、参考として簡単な経過の一覧表を掲げておく(第37表参照)。
第36表 出国者の一覧表
禄 高役  職人   名年齢
1,000家 老小宮四郎左衛門60
1,000伊藤六郎兵衛30
1,500小笠原蔵人26
1,500二木勘右衛門32
300用 人小笠原鬼角30
350伊藤勘解由62
700番 頭小笠原藤助27
700小笠原隼人30
400小笠原杢不詳
300小笠原主水30
400高橋十兵衛35
700長坂源兵衛34
500島立弥左衛門50
600高橋主税29
200大目附高田一学28
150細野奥左衛門40
250側 役鱒淵吉左衛門35
300葉山仲之助不詳
添番兼帯
530寺社奉行関口彦助不詳
(町奉行兼帯)
150伊藤奥(貞ヵ)右衛門不詳
300大 賄上原(条ヵ)藤太不詳
200勘定奉行大輪健助45
200筧宇兵衛47
3□□宗旨奉行原庄右衛門不詳
300籏奉行平林源次郎不詳
500那須何右衛門不詳
200船奉行吉田由右衛門不詳
250物 頭山崎新左衛門不詳
200岡村新五左衛門不詳
400使 番林加治馬不詳
300小幡半之丞不詳

禄 高人  名禄 高人  名
300二木金之助300柏木彦兵衛
400豊田六郎左衛門300大池寛助
300喜多村権右衛門400伊藤惣左衛門
200大羽藤左衛門200福原権平
100今沢三之助100平松多津馬
100今沢丹弥200菅野又左衛門
100葛西新左衛門150菅野伝之助
200吉村恒左衛門150岩田平左衛門
100鈴木百助17
4人扶持
岸本五兵衛
150喜多村右馬之助200香坂源左衛門
150入江三郎兵衛20
5人扶持
杉野熊太郎
100勝野了助300奥弥太郎
100近藤助之丞300天野伝十郎
150辻嘉左衛門300青木伝太
350牧野弥次右衛門200深谷権左衛門
250中西勘五兵衛300市岡太郎左衛門
250富永清七郎250水上与次郎
200志津野平太200友松常助
10
3人扶持
熊谷弾助15
4人扶持
原喜三次
20
5人扶持
川崎三平12
3人扶持
上田篤兵衛
20
5人扶持
原丹吾

禄 高役 職人  名
   10
3人扶持
書院番
2人
岡与左衛門 柳瀬九蔵
   18
3人扶持
儒者1人
 
上原与市(張本人也)
 
証文役
3人
布施源太郎 松本清吉
 
鶴田八兵衛
組外
11人
西玄袋 川村七郎右衛門
岡村五郎右衛門 田中定四郎
直円之助 早見順太
小畑仁助 早見新介
継橋忠助 村種吉
鳥羽悦右衛門
〆89人
 これに小宮四郎左衛門の嫡子 主税之助
  二木勘右衛門の嫡子 儀右衛門を加へ
合計91人
 其の他嫡子二男三男及家来等、後に馳加はりしものを加ふれば
 無慮358人の多き及べり。

第37表 文化の変の略表
年月日主流派の動き反主流派の動き
文化8年(1811)藩主忠固は朝鮮使節応接の正使に命じられ、その任務を成功させた後、心中密かに老中職を望み、その旨を重臣らに打診した。
当職の小笠原出雲(はじめ帯刀)は反対、小宮四郎左衛門・伊藤六郎兵衛・大羽内蔵之助・小笠原蔵人は賛同、そこで出雲の就官活動が開始された。
文化10年(1813)家臣の奉禄は半知になった(「彦夢物語」)
就官運動の成果は「侍従」に昇進、さらに忠固は帝鑑間詰から上位の留間詰を望む
主流派の形成―渋田見主膳・鹿島叶・絹川平馬・伊川平八・杉生十右衛門反主流派の形成―上原与市・二木勘右衛門・小笠原蔵人・伊藤六兵衛・小宮四郎左衛門
9月 長崎奉行に対して落とし文(落書き)
同11年(1814)2月 小笠原蔵人が家老職につく
3月 伊藤六郎兵衛、上原与市を伴い江戸に出立
7月 出雲にわかに帰国して再び江戸へ向け出立
9月 藩主忠固の帰国




 同月末、渋田見は襲撃を受けて死去
 鹿島・絹川・杉生を中心とする主流派と目された者の多くが格下げされた。
 藩主の帰国を機会に、小宮・伊藤・小笠原の三家老は主流派の鹿島・渋田見・絹川を退けるように諫言し、排斥を図ろうとしたが成功しなかった。そこで渋田見だけを中老格にして、他の3人を退けさせることにさせた。

二木勘右衛門は家老職、伊藤勘解由は御用人、関口彦助は寺社奉行、上条藤太は御元〆、筧宇兵衛は普請奉行に昇格
11月 密かに出雲帰国、16日早朝に鉄門を閉鎖して、格下げされた者を再登用し、反主流派を罷免する大粛清人事を断行した。
4家老(小宮四郎左衛門、伊藤衛守、小笠原蔵人、二木勘左衛門)らおよそ80人位が筑前藩黒崎宿に出国した。
17日 中老など130人が登城して、忠固に出雲を退けるように諫言し、忠固はその措置を彼らに委ねた。
11月18日帰国し、直ちに登城
19日出雲は蟄居を命じられた。
文化12年(1815)出雲は小笠原刑部の屋敷に牢舎をつくり獄入り、鹿島・絹川は揚がり屋入りとなった。
中老の原与右衛門が家老職となる。
8月13日幕府の処罰がなされた。
忠固100日の逼塞
9月中老職の島村十右衛門を家老職にする。4家老は解職・逼塞、出雲の者達も処分された。
文化14年(1817)福原七郎右衛門が家老職に任命された。
文政1年(1818)出雲の嫡男小笠原帯刀がリーダーとなる二木勘右衛門の家督を相続した二木左次馬がリーダーとなる
文政2年(1819)小笠原帯刀、家老職となる二木左次馬、家老職となる
家老の原与右衛門は罷免され、中老の小笠原刑馬・小笠原監物は蟄居・隠居
主流派が復権をはたした。
文政3年(1820)9月3日 処罰された(第38表参照)。中老の小笠原蔵人は減石・隠居、伊藤六郎兵衛は減石・隠居など多くの者が粛清された。

 
 しかし、黒田藩の黒崎宿の代官はこれを止め、こうした中で、藩主忠固が御墨付(内容は出雲の閉門)を出すことでようやく決着した。一方、出雲は十七日に出奔したが、十九日に下関で捕らえられ蟄居を命じられた。こうして小宮ら四家老の反主流派は出雲らの主流派の排斥に成功した。
 この間、反主流派である小笠原藤助(御用人)・辻加左衛門(馬廻)の両人は肥後熊本に十一月二十一日に着き、同月二十八日に出発している(「小倉騒動手紙」永青文庫一四―一二―二九)。そして、別便で四家老より熊本藩の溝口蔵人(のち、文政八年同藩「老中」に就任、永青文庫「本藩年表」)に宛て、書状が出されている(前同「手紙」)。
 

第21図 文化の変に関する書簡
(文化11年「小倉騒動手紙」7通「永青文庫」14・12・29)

 
   当秋、大膳太夫様(藩主、小笠原忠固)御帰城の上、御改の義も有之(中略)小笠原出雲儀江戸より罷帰
  (まかりかえ)り、如何申上候や、別段の取計をするようになり、御家中一統、またまた居あい悪くなり、
  眼前騒動にもおよぶように成ってしまったが、拙者どもの意見が上層部に取り上げられなくなり、是非な
  くその御地へ罷越(まかりこし)、御旧縁のあることから取り治め方を、越中守様(熊本藩主)へ相伺い可申
  存念(中略)右の次第申し上げるため、小笠原藤助ならびに辻加右衛門を貴方様に遣わすので、御承知下さ
  れ候上、御取持をもって越中守様御目通りをも被仰付候ハゝ、拙者共において有難次第本望の至り奉存
  候(下略)
 
 この変はやがて幕府に知れるところとなり、翌文化十二年(一八一五)八月に処置がなされた。藩主忠固は「思慮なき取計らい」として一〇〇日の逼塞(ひっそく)、四家老に「軽率な振る舞い」として解職・蟄居、出国の者たちには相応の罰が申し渡された。秋月藩では「小倉隣国に付、御城受取可被蒙仰と内々専手当いたしたる」(「吉田澹軒漫録」)と予想していたが、「先祖御筋目を以御宥免」との幕府の沙汰で改易(かいえき)(取り潰し)は免れた。