ビューア該当ページ

文化の変の終息

929 ~ 930 / 1391ページ
幕府の処置によって、決着のついたかに見えた家臣団の分裂は再燃して、文政元年(一八一八)白組は出雲の嫡男小笠原帯刀をリーダーとし、黒組(反主流派)は二木勘右衛門の家督を相続した二木左次馬をリーダーとして対立した。「御城下甚だ騒がし」(「戊年騒動記」『小倉市誌』上巻八二ページ)の情勢となり、再び確執が表沙汰になった。翌二年に小笠原帯刀・二木左次馬がともに家老職に就くや、反主流派で占められていた藩権力の中枢の人事は刷新され、主流派である白組が復権した。翌三年には前述の渋田見氏の襲撃の犯人が挙がり、また足立山の狼煙騒動の犯人も捕まった。こうして反主流派は次々と処罰され(第38表参照)、そのほかに黒組にくみしていた者の多くが減知や蟄居・隠居を命じられて粛清された。表面上は藩内は静謐(せいひつ)になったが、両者の間の溝はさらに深い亀裂を生じさせ、抜きさしならない不信を生んだのである。
第38表 文化の変の処罰者一覧
人 名罪  状処 罰
上原与市この度の事件の張本人、烽火をあげるように
手下に指示し、その他の悪事を働いた
火 罪
早見新助渋田見彦左衛門を暗殺獄 門
御草履取
 繁 七
小笠原隼人の指図にて石見国へ銀談獄 門
早見順助御証文役相勤め、数多くの悪事打 首
大里町
鍵屋弥四郎
石見国へ銀談・京都へ内訴
木屋十兵衛悪党に加担し、呪咀などを取り扱う
広寿山料理人
鶴田幸八
与市の指図にて烽火をあげた
二木左治馬悪党第一の人物牢内で死罪
小笠原東(藤)助渋田見彦左衛門を暗殺
小笠原隼人石見へ銀談・京都へ内訴
『中村維良日記』から