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杉生十右衛門貞則

930 ~ 931 / 1391ページ
前述の「戊年騒動記」は、杉生十右衛門貞則の立場で書かれたものである。杉生は、郡政において多くの業績を残した人物である。「犬甘の後に杉生貞則あり。此の二人は小倉藩に於ける大事業家と言はざるべからず」(『小倉市誌』下巻四九八ページ)といわれる人でもある。
 杉生は文化の変では渦中にいた人物でもあった。文化六年(一八〇九)に普請奉行の職にあって、船奉行も兼任した。そして、藩主忠固が朝鮮使節応接のため対馬に渡海する大船(一七〇〇石、相生丸)を建造した。また、第39表に見られるような業績を残した。
第39表 杉生十右衛門の業績
役 職業   績
普請奉行御城の居間・舞台の屋根を銅瓦葺きに
檜書院の間、御書方役所、大目付部屋などの屋根を瓦葺きに
思永斎・武芸場の草葺きを瓦屋根に
大隆寺・成願寺・祇園社の草葺きの建物を銅瓦に
広寿山の禅堂などの草葺きを瓦屋根に
城下町の外郭の板塀を4キロメートルにわたって土塀に
市中を貫通する東西の道路わきの側溝を切り石の溝ぶたに
紫川の大橋の橋柱を木材から石柱に
中嶋の不毛の地を、7~8町余の新田に
郡 代宇島築港(文政4~文政11)
仲津郡の今川を舟運航路に開発(文政5~6)
田川郡から仲津郡に至る立石峠の難所を開く(文政6)
極貧の百姓への子育て養育費を出す
『小倉市誌』下巻、『門司郷土叢書』から

 ところが、文化の変では白組とみなされていたため、文化十一年(一八一四)に一時反主流派(黒組)が実権を握ると、罷免・謹慎を命じられた。やがて文政二年(一八一九)には、支藩新田藩(小笠原近江守貞温、当時幕閣で若年寄)の家老職で復帰し、この変が翌三年に反主流派の処罰によって終わった後には郡代に就任した。彼の事業のうち最も大きなものは宇島築港である。