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宇島築港

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現在の山国川の河口の三角州にある小祝は、旧地名を小今井といっていた。この地名の謂(いわ)れは京都郡今井村の出家(でや)となっていたことにある。中津藩領域の中にある小倉藩の飛び地である。宗門改めなどは、今井村の管理下にあった。もともと、この小今井は現山国川の対岸の地、高浜と陸続きであったが、寛文九年(一六六九)の洪水によって、この間に新しく川筋(新川、山国川)が生じた。こうして、完全に高浜と、小今井は切り離されたが、両地ともに今井の住民(漁民)が移り住んで開発した土地であった。中津城とその城下町に近接し、河口にあって漁場にも恵まれていたので、中津藩との間で領地替えの論争が絶えなかった。一度は、中津領の土佐井村との交換がなされたが、二代藩主忠雄の時、中津藩と交渉して小倉藩の飛び地とした。そして、この小今井は地理的な条件から漁村としてのみならず、遠隔地交易の拠点港として栄えるようになった。そして子祝と通称されるようになってきた。小倉藩は幕府の許可をえて元禄十四年(一七〇一)に「小祝」と改称した。ところが、この小祝・高浜をめぐって、中津藩と小倉藩との間でしばしば論地が起こり、最終的に解決するのは慶応三年(一八六七)になってからである。また小祝の繁栄から、小祝浦漁民・商人と中津城下町の商人たちとの経済摩擦も生じてきていたのである。その繁栄ぶりは幕末期のものであるが第40表のようになっていた。
第40表 小祝浦の繁栄
(文政2年=1819)
(『豊前市史』上巻889ページ)
家 数430軒
人 口2300余人
船 数97艘

 
 文政三年(一八二〇)、中津藩主奥平昌高は小倉藩主忠固に小祝浦の替え地を直書をもって申し入れた。そこで忠固は帰国して、重臣を集めて評議した。この重臣の中に、郡代の杉生も加わり、次のような献策をした。忠固の意向は、中津藩主の申し入れの替え地を回避することであった。
 杉生の献策は、①中津藩の提示している小祝の交換地の直江村などは小倉藩にすれば藩域が一円になり利益になる、②新田藩の近くに新地を築いて、小祝浦の者を移し、また船繫ぎ場をつくれば、避難港としても有効となるというものであった。既に、文化十四年(一八一七)には八屋・沓川両浦間に繫船場として、藩費で工事を着工していた。こうして、内々に手がけていた築港と中心として小祝浦の漁民の移転を考えたのである。こうして、この案が受け入れられ、中津藩の替え地申し入れを回避したのである。
 そしてすぐさま、藩は郡代杉生に命じて築港計画の絵図面を作成させ、文政三年八月幕府に請願書を提出した。
 この計画の着工が、翌四年に幕府より許可された。このための工事の役所が設けられ、杉生郡代を総指揮として郡方役人中心の三三人の構成員が仕事を分担した。文政四年四月に着工、総工費九七二貫余と見積もり、領民から五ヵ年賦一五九貫目、領内富豪から一〇三貫余、郡土蔵から七一〇貫余の割合で出資することにした。
 工事は赤熊村の海岸で始められ、役所の建築、ついで小祝の漁民の移転、家屋の建設が進んだ。その一方で、領内に資材の供出の命令を出し、特に松の木の伐り出しを命じた。工事用の造船のため安芸(広島県)からは、船大工を雇い大小合わせて三十数艘の舟をつくった。石工も雇い入れて工事は着実に進んだ。文政八年(一八二五)五月に三波止工事は完成した。工夫は六郡二九手永の出夫一六万八〇〇〇人、雇い立て人夫五万五〇〇〇人の見込み、水面反別九万六五〇〇坪、工費予算銀二万四〇五〇貫におよんだ。そして、さらに文政十一年(一八二八)には町割り、道路などの整備が終わり、宇島築港の竣工式をあげた。しかし、この完成年の夏には有名な文政十一年の台風が吹き荒れるのである。中波止の一部が崩壊する甚大な被害にあった。以後、何度も被害に遭いながらも修復しつつ、在郷町として発達し、著名な万屋をはじめとする富商が台頭するようになる。特に弘化年間(一八四四―四八)から万屋と日田商人との関係が生じるなど、また日田幕領の農村から蔵の設置を申し入れられるなど大きな経済圏を形成するに至るまでになった(第22図参照)(参考文献『築上郡志』『豊前市史』上巻)。
 

第22図 宇島築港顕彰碑


小祝浦の絵図(復原図)
(『豊津藩歴史と風土』第3輯)