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農村の疲弊の進化

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小倉藩寛政の改革での農村保護政策は、実際はどうであったのだろうか。犬甘兵庫の失脚が享和三年(一八〇三)であるから、その二年後の文化二年(一八〇五)正月、京都郡の郡役人である岸本五兵衛の「京都郡御下米歎願書扣」(『福岡県史』第三巻下冊三六九~三七二ページ)がある。それによれば、郡の疲弊は三十年この方、すなわち明和(一七六四―七二)・安永(一七七二―八一)両年間からと記されている。また、八〇町余の無土弁(むつちわきま)えをもつ郡でもあった。寛政六年(一七九四)には農民の諸拝借を貸居(かしすえ)(藩が貸した米や札などを取り立てないこと)にした。寛政八年には凶作のために小百姓が多く離散した。特に久保(現勝山町・行橋市)や延永手永(現苅田町・行橋市)の状態が非常にひどかったので、翌年から勘合米を出して救済に乗りだした。それでも一向に状態が改善できないので寛政十二年(一八〇〇)に莫大の拝借銀が下されたので、新百姓の仕据えを図り、荒れ地・無主地の主付けを終えることが出来た。ところが、寛政九年に出されていた勘合米(五五〇石)を召し上げようとしたので百姓の間で不安が生じている。むしろ八〇〇石の勘合米を下すべきだと主張し、五五〇石の勘合米をそのままとし、残り一五〇石をもって人不足の解消策の費用とするように主張している。このように寛政期の農村の困窮は一向に回復しているどころかむしろ悪化さえしている。
 文化十五年(文政元年=一八一八)の「寅日記」(国作手永大庄屋文書、『豊津藩歴史と風土』第三輯二五三ページ)四月二十二日の条に「羽禰木(はねぎ)村・福富村・下原村、右三ヶ村の義ハ、仲津郡亡村四十五ヶ村之内ニ而も、格別之難儀村ニ而、年々莫太(まま(ばくだい))の御勘合米被 仰付候而も、御上納皆済得仕不申、仕詰ニ至候而ハ年々余分未進米相立、無拠種々心遣仕、庄屋共役料毎迄も村方不足ニ差立、御年貢上納仕候故、両三年と不相勤、退役仕候(後略)」(国作手永大庄屋文書「寅日記」『豊津藩歴史と風土』第三輯二五三ページ)と、仲津郡には亡村四五ヵ村、そのうち最も「難儀」の村が三ヵ村あり、莫大の勘合米をもらって何とか百姓経営(村の経営)が成り立っている有様と、かつ庄屋の役料を注いで年貢収納のやりくりをしているため、庄屋のなり手がいない状態を報告している。「亡村四拾五ヶ村」は、延享三年次(小笠原文庫「豊前国小倉領郷村高辻帳」『豊津藩歴史と風土』第一輯二一~四五ページ)の仲津郡全村数六六ヵ村、明治二年次(北九州市立中央図書館「豊前国田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡之内村高書付香春藩」『豊津藩歴史と風土』第一輯四六~六五ページ)では七四ヵ村だから、優に全村の半数を超える村が荒廃している状況を伝えていることになる。
 状況は田川郡も同じであった。同郡は寛政五年(一七九三)―享和二年(一八〇二)の一〇年間惣定免が実施され、その年あけの享和三年の春には百姓たちが拝借を願い、小倉表に出訴して郡中騒然となった。さらに、「並々之百姓は不及申古来より取続候高持百姓(中略)数百軒滅亡…地味相衰候間上田茂下田ニ位を落し御郡中衰微之基と罷成申候」という古くからの高持百姓などをふくむ平百姓たちが田畠・家屋を売り払う境遇に陥って数百軒の潰れ百姓が生じ、かつ田川郡が衰微の基となった。また、文化十四年(一八一七)には潰れ百姓が数十軒出た。さらに未進米(年貢不能)が二〇〇〇石余りに達したため、一〇〇〇石の下げ米を願い出ているが受け入れられていない(添田中村家文書「歳々公私至要録」七隈史料叢書六『小倉藩田川郡添田手永大庄屋記録集』二四九~二五二ページ)。
 仲津郡の上記の状態に対して、藩が行った対策は文化四年(一八〇七)から大麦一二〇石、小麦八〇石ずつを「御仕入」として救済策として実施し、文化十三年(一八一六)までの一〇年間にわたって継続した。これによって当面を凌いでいるので、引き続いて今後も継続を要求している。
 村役人などの窮状も他の郡でも同様であった。天保三・四年(一八三二・三三)ごろから、企救郡の下曽根村は農民たちの騒動が絶えなかった。同五年秋の年貢収納に励んでいた庄屋が出奔し、やがて不審死を遂げるという事件が起こった。天保九年(一八三八)には築城郡椎田手永では大庄屋の椎田甚右衛門が出奔している。天保十三年(一八四二)には田川郡糒手永大庄屋の糒古左衛門は借財精算の見通しが立たず倒産した(『田川市史』上巻七二四~七二五ページ参照)。
 年代は前後するが、天保七年(一八三六)に農民の窮状をみた筋奉行の延塚卯右衛門は郡方役所の役人と意見を異にし、独断で三〇〇石余の年貢引きをして自害したとされる事件が起きている。このように上層農民の苦境のみならず、次に述べるように下層の農民たちはさらに一歩すすんで訴え、逃散・騒動を起こす事件(「村方騒動」という)を起こすようになり、かつ恒常的に続発するようになった。
 農民一揆として一般に早くから知られたものは慶応二年(一八六六)八月一日と二日に起こった「打ち毀し」と「文化の百姓一揆」であろう(文画堂『福岡県の歴史』昭和三十一年版)。また、『福岡縣史料叢書』第八輯(昭和二十四年)・『福岡県史』第三巻下冊(昭和四十年)・『豊前叢書』(昭和四十二年)などでは詳しく紹介されるようになった。このうち、前者の「文化の百姓一揆」については、その原本が「彦夢物語」という史料に拠っており、犬甘兵庫の悪評を強調・補強に用いる取り上げられ方をしており、事件そのものは否定できないものの内容的には疑問点が非常に多い。ともあれ、企救郡の永野村の百姓全員が筑前遠賀郡香月村に逃散したという内容である。また、後者の「打ち毀し」は企救・田川両郡を除く四郡で発生した(『福岡縣史料叢書』第八輯に詳しい)。ついでに断っておくと、明治二年に企救郡、明治四年には田川郡で一揆が発生した。
 現在のところ、多くの市町村史誌の発刊がすすむにしたがって、百姓一揆に関する事例が多く報告されるようになったので、かつてのように小倉藩は一揆の少ない藩であったとする見解は通用しなくなっている。主なものを第41表に掲げて置こう。
第41表 主な村方騒動
年代西暦で  き  ご  と
享和3 1803惣定免あけの田川郡の百姓たちが小倉城下に出訴
文化5 1808企救郡長野村の百姓、筑前領に逃散
10 1813田川郡上伊田村で騒動が発生
文政8 1825企救郡到津村の勘合米をめぐる訴訟
田川郡伊原村での「百姓不折合」
同郡中元寺村で百姓と庄屋との公事
同郡野田村で百姓と庄屋との公事
同郡神崎村での百姓が筑前領に出奔し、日田へ赴く
10 1827金田村の百姓、頼母子講につき草場番所へ訴え
12 1829田川郡今任・桑原両村の百姓が小倉へ出訴
同和糸田村で、農民が騒動をおこす
天保1 1830企救郡上曽根村の村民借財の支払い停止(1年間)を要求
2 1831企救郡津田手永今村と片野手永で「庄屋代」問題が発生
田川郡上糸田村で村民の騒動
3 1832田川郡白土村の百姓ら出米の件で方頭を訴える
4 1833企救郡上曽根村の村民拝借米を要求
同郡下曽根村の難渋百姓騒動
仲津郡津留村の村民が筋奉行に訴えるため出村
5 1834田川郡宮床村で公事
6 1835田川郡糒村の農民が日田と小倉に出訴のために出村
金田・猪膝両手永で農民が騒動を起こした
7 1836小倉城下町で町人が騒動を起こす
企救郡下長野村の村民が騒動を起こす
同郡中曽根村の村民が出訴
8 1837田川郡糸田村の百姓騒動
9 1838上毛郡で「連合逃散事件」が起きる
企救郡上貫村の百姓が庄屋を吟味役に訴える
同郡中・下貫村の村民が勘合米を要求する
同郡中貫村の百姓が庄屋の不正を訴える
弘化1 1844企救郡上長野村の百姓、庄屋の就任を拒否
嘉永2 1849企救郡上長野村の難渋百姓が借金ほかを一ヵ年取立中止を要求
同郡上貫村へ同じ内容の要求が伝播
3 1850仲津郡国分村で年貢収納をめぐり村方不折合
田川郡田原村の百姓が小倉へ出訴
同郡糸田村も同上
  6 1853企救郡下貫村の百姓宮田米の件で公事
安政1 1854企救郡津田村の村民、昨年以来騒動
同郡下曽根村の百姓が拝借米を要求
同郡東朽網村同上
新田藩の吉木村以下四ヵ村の百姓全員が訴え、35人ほど小倉へ向け出村
上毛郡赤熊村の者30人余も出村、郡代に越訴
2 1855田川郡弓削田村の百姓、拝借を願い小倉へ出村
(『田川市史』上巻、『北九州市史』近世編、『豊前市史』上巻など)