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荒廃からの復興策

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人口減少には自然的・社会的なものがあるが、当時の小倉藩の人口減少は飢饉・凶作などによって餓死することからくる自然的減少というよりは、欠落などによる社会的な要因によるものが大きく作用していると考えられる。人口減少はとどのつまりは労働力不足を意味するから、農業の再生産に必要な労働者を増加させるほかに根本的な方法はない。藩は人口増加策や新百姓の取り立て策による耕作人確保を寛政期以降に中・長期的な政策の基本とせざるを得なくなってきていた。
 
   文政八年(一八二五)、
  御郡中之者共子供多候所より自然と困窮仕難渋仕候ニ付、無拠流産等仕候者も可有御座哉(中略)未八月御
  触出被仰付奉畏候(中略)格別難渋之者共え其子共七才迄夫々御扶持方御手当可被仰付
                      (長井手永大庄屋文書「文政八年酉日記」十月十一日の条)
 
 難渋者の子供に対する養育費の支給を触れ出している。これは多くの藩で行われている「子育て仕法」の類と考えてよく、その運用面は詳細に出来ないが実施されていたことは第42表を見れば分かる。なお、この支給は安政四年(一八五七)に中止された(『豊前市史』上巻七五七ページ)。
第42表 扶持米支給対象者
  郡名
年代
田川京都仲津築城上毛合計
天保 6
(1835)
21564633男 18
女 15
天保11
(1840)
22376644男 23
女 20
天保13
(1842)
32097746男 25
女 21
弘化 1
(1844)
32187645男 24
女 21
(六角家文書「公私諸用録」)

 幕府は育児能力の無い者の赤子の養育費金一両を第二子から支給した(津田秀夫「寛政の改革」前『岩波講座日本歴史』近世四)。筑前藩では既に同様の仕法を寛政九年(一七九七)に始めていた。当藩の場合、まず流産禁止令を出し、そして育児料として米八斗を支給するようにした。
 文政六年に「六郡御根付料御用銀御撫育仕法」という大がかりな復興策を講じた(「勢島文書」八五 北九州歴史博物館蔵)。
 一、銀百六拾貫目
内弐拾貫目御表
内弐拾貫目御郡土蔵
内弐拾貫目企救郡
内弐拾貫目田川郡
内弐拾貫目京都郡
内弐拾貫目仲津郡
内弐拾貫目築城郡
内弐拾貫目上毛郡
  〆


 という内容の無尽仕立てで撫育銀を生み出そうとした。そして「右之銀子毎春御根付料(稲の植付の諸費用)其外御郡々無拠入用筋之儀者一統評議の上員数相定貸渡可申事」とあって、根付料や不慮の入用などに貸し付けるようにしていて、その目的も明確である。管轄は六郡の筋奉行が行い、貸借関係の出納算用は当番の大庄屋二人が勤めるようにする。貸し付けは筋奉行と大庄屋の相談の上で決定するなどの仕法がたてられた。六郡の筋奉行と代官、六郡大庄屋が連名し、その後に「徳人え御達之事」とあって、徳人たちにこの無尽への出金を要請している。この趣意書には筋奉行印の後に、添え書きして家老印が捺印された。趣意書での割り当て銀額は、同じ総額であるが、「御表」と「御郡土蔵」分はなく、六郡で割り当てられてあった。藩側のこの施策は最初の見込みは六郡の徳人たちのみに頼ろうとして行われた模様だが、結局は藩庫と郡土蔵の出銀で可能になったとも言えるが、藩側の意気込みは伝わる。
 元来、郡土蔵の役割の一つには「右米銀ハ各郡亡村農作ニ差支ノ貧民へ附与、又ハ貸附等に支払、或ハ凶年手当ニ宛シモノナリト云フ」(「旧租要略」(二)『県資』第九輯七〇二ページ)といった大きな側面がある。それも限界にきていることを示しているにほかならない。そのうえで、この施策を講じて農村の立て直しを図ろうとしたものと言えよう。