ビューア該当ページ

郷村改め

941 ~ 942 / 1391ページ
天保三年(一八三二)三月、幕府の命令に基づいて、郷村改めが触れ出された。一郡一帳にして差し出すよう命令された。その時のものとして、次に示す第43表は小倉藩内全体を集録したものとして残存しているが、その信憑性は現在のところ疑問が多い。これについて、田川郡の大庄屋が五万四二五九石三斗五升五勺と書き出している(六角家文書・添田中村家文書―七隈史料叢書六「小倉藩田川郡添田手永大庄屋記録集」)。この表と比較すると二六二〇石余も少ない。このことから、疑問は次の二つの点が考えられよう。一つは郷村帳に筆者とされる依田某の典拠としたものが何に拠ったかということ、いま一つは書き上げた大庄屋の書き上げた数字はどんな数字なのかということである。前者については、数字を通覧する限りでは、延享三年(一七四六)「巡見上使御尋之節申上様の次第」や寛政元年(一七八九)之巡見使への答申書と同じことが参考になる。後者については、企救郡津田手永大庄屋の中村平左衛門の日記に「郷村改書出の義、本田・新地共ニ荒高ニて候(中略)尤村名ハ已前書上の振合ニて此度も差出候様ニとの事也、手永抔ハ長野村・津田・田原・曽根・朽網・貫六ケ村也、上・中・下・東・西等ハ分リ不申候(下略)」(『中村平左衛門日記』第五巻、天保三年三月八日の条)とあって、「荒高」で書き出したことと、村名については以前のままで出したので、例えば上曽根とか下貫村とかの現在の村については分るようになっていないということである。幕府の命令によって書き出したのであったため、以前の郷村改めとはあまり相違ないようにさせた要素の強いものになっていて、実態を表していないように思われる。
第43表 天保三年の郷村改帳
郡 名古改高寛文四年
新田
貞享元年
新田
貞享元年
以降新田
企 救48,832.59,551.77,231.90.066.7
田 川56,879.110,396.85,881.7675.5352.4
京 都34,271.49,193.72,569.1411.5154.2
仲 津40,773.58,560.03,453.7850.4266.9
築 城22,844.15,174.31,546.8444.0122.1
上 毛20,849.35,994.4940.6890.0140.9
史料合計224,449.948,870.621,623.93,271.41,103.2
合 計224,449.948,870.921,623.83,271.41,103.2
(吉田美智子「小倉藩郷村帳」小倉郷土会館『記録』第16冊
米津三郎「小倉藩天保三年郷村帳について」『地方史ふくおか』第67号)