天保六年(一八三五)郡代の山田平右衛門が新田藩の家老職に転任した後に、原源太左衛門が郡代に就任(期間は天保十年まで)して、次のような政策を打ち出した(六角家文書)。①水帳の改正(実は水帳の点検)、②年貢その他の取り立てを名寄帳に基づいて行う、③歩掛米取り立てはやめる、④糠藁・薪札・鶏卵などの運上は定式納化し、銀五貫目替えの米納とする、⑤差上米は定式額にて上納のこと、⑥出米の値段相場は当年から中止する、⑦郡中では村・手永・郡単位での拝借(藩からの借財)がかさんでいるので、当年から天保十年までの五ヵ年間は据え置く。
以上のような施策を発表している。しかし、詳細は不詳である。年貢その他の取り立てはほんのささいな変更であっても、農民に大きな変化をもたらすものであったに違いない。差上米の定納化にしても不作の年には今までは軽減があったし、また、歩掛米にいたっては藩の郡土蔵に納められたがその多くの運用は大庄屋に委ねられて、無尽や郡・手永の融通に用いられて農民の再生産の保障になくてはならなかったものであった。強いてこの施策を実行しようとしたのは後述するように、郡代を中心として繰り広げられる藩の国産政策の一環として出されたものであるといえる。特に、糠藁・鶏卵などの運上銀を藩札や銭で徴収していたものを米で上納させて換金しようと意図したものである。出米相場の通達の廃止はそういう意味で解釈が成り立つ。