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山鑑改正

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天保二年(一八三一)二月、山鑑改正が触れ出された。山鑑は藩内の山林に関する基本台帳である。山林の広さや所有形態を記録している。山林は小笠原氏入国時は上り山(藩有林)・定請山・当請山・仕立山の区別は無かった。すべては上り山(藩有林)であったのである。元禄十五年(一七〇二)に宿久善右衛門郡代が山林法を設けた。上り山・定請山以下の山林の区別を設けて、反別の調査をして、運上銀制度も定めた。この運上銀制度は、薪札を発行して百姓の利用の便を図った。これは、四ツ高一〇〇石につき、銀一匁五分の馬札三枚、銀七分の歩行札六枚と無高百姓には一〇軒に付き銀七分の歩行札五枚ずつを発行した。この薪札銀札は領内全体で銀五貫八〇六匁余である。仲津郡は五〇三匁(領内全体の九・五パーセント)である。
 また、山林の種類は上り山(藩有林)と仕立山(民有林)の二つである。その他に請山があった。請山とは藩有林の下草伐採などの利用を許されたものであり、いずれも使用料として運上銀を納めた。
 この年の山鑑改正は、帳面と実態の点検を中心に進められ、九月には新規に仕立山を願い出たものは一反に付き銀五〇目の運上を納めるよう、山奉行が沙汰した。これは、十一月には五ヵ年賦上納になったが、上納出来ない場合には藩有林とするとの強硬な触れになった。これは、当然、山鑑帳の作成が従来と変わってくるので、企救郡では大庄屋たちは当惑し種々協議したが、相互に意見の調整がつかなかった。結局郡方役人が調停に入って、運上銀を二〇ヵ年賦上納とする、そして一応郡土蔵から貸し出すことで解決した。こうして、無事に山鑑の改正作業は完成した。企救郡では大庄屋層には仕立山返上を含む強硬意見もあって、山奉行と真っ向から対立する者さえあった。管轄の異なる郡方役人の労によって解決した事業となったのである。