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文政の国産仕組

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文政十年(一八二七)十月、藩ははじめて本格的に商品流通からの収益をめざして国産政策を開始した。田川郡において始めた模様である。同郡内の産物を産物会所に集めて小倉・下関・大坂、さらに諸国へ販売するという内容である。対象となった産物は、生蠟・鶏卵・楮・葛・蜜・半夏・蕨(わらび)せん・胡麻・辛子・荏子(えご)・山薬・茯苓(ぶくりょう)・竹皮などであった。会所の引受方に香月七郎右衛門を命じ、同郡の大庄屋たちが産物支配方を任命された(田川郡郷土研究会編『津野』、「六角家文書」)。この仕法は、国産会所が藩札で産物を買い上げて大坂で販売しようとして、他所売りと販売価格を統制しようとした。多くの藩で実施された専売制度は、究極的には産物の買い占めによる流通過程からの利潤の獲得に目的があった。ところがこの仕法は産物の買い占めを意図していない、むしろ「大坂での銀繰りを可能にする目的」(野口喜久雄「小倉藩における国産政策と御仕入板場」『近世九州産業史の研究』所収)で始められた。つまり、少しでも藩財政の資金繰りが容易になればというものであった。
 この仕組みで中心的に取り扱われた商品は生蠟と鶏卵であった。特に生蠟は銀高のほとんどを占めた。ところが、この仕法の欠点は藩札の値打ちに左右されていたことにあった。藩札の下落は、藩札の新規発行(後述)を余儀なくさせたが、それでもなおこの仕法は持続出来ず失敗した。