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天保四年の国産方仕法

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天保四年(一八三三)八月、藩から領内で五~六万石規模の買米を試みたいと大庄屋に伝えられた。買米については、文政五年(一八二二)、「御買米の義、地方へ引受候様にとの御趣意」(『中村平左衛門日記』第三巻)につき、大庄屋は評議した。同日記によれば大庄屋たちは、藩の要請から、買米の世話役を村役が引き受け、米値段の相場・世話料について上申したとあって、既に実行されていたことが分かる。
 この天保四年の五~六万石の買米が成功したかどうかは不明である。同月十九日には、郡方役所の杉尾貞蔵が「国産方」を拝命している。ところが、十一月十八日に突然「此節世情物騒ニ付御止メ」と中止している。翌天保五年五月、国産方役所が発足した。そして十二月には田川郡糒・上野両手永の大庄屋を「郡中吟味役国産方引請」とし、天保六年一月には田川郡の在方町の商人たちを「国産締り方御用掛」に任命した。そして、小倉城下町商人の住吉屋音右衛門と伊崎屋善次郎を「国産御用掛」にした。特に伊崎屋には両替所も命じた。この国産政策は、小倉城下町商人を通じて、農民の余剰米を集荷し(買米政策)、その他の産物を出来るだけ大坂に送ろうとしたものであった。この仕法の成果は上がったとみえ、郡代の原源太左衛門が「国産方ニて御出精有之、御益も相立」という理由で三〇石加増、同じく田川郡筋奉行の小出段蔵も三〇石加増された。
 そしてこの買米政策は、天保七年(一八三六)三月には「買米仕法」として整備された。その内容は、①国産方米切手を発行する、②米切手による年貢上納は勝手次第、③六郡の散米(農民の余剰米)その他の産物の銀値相当の分を申し出次第に新札を渡す、④企救郡の田野浦、上毛郡の宇島の二カ所に、産物買集所を建てる、などである。藩側の国産方の役人は、本締め役に原源太左衛門、そして末松半右衛門、杉尾貞蔵・平緒権平・藤田友助・宮下由右衛門などである。しかしこの政策も藩札の値打ちに左右されていた。後述するように、当時の平野屋札も貨幣価値の下落の危機を迎えていて、天保五年に低下防止を図った。天保七年には、下落を防ぐことは困難になって、藩は新しい藩札を発行して平野屋札との交換を命じた。こうして、平野屋札を通じての国産政策は行き詰まった。十一月には本締め役の矢野五郎次郎が罷免され、後任に平林茂兵衛・大池丹吾がなり、勘定奉行には伊藤半右衛門がなるなどの人事異動が行われた。