国産方役所仕法の失敗は、大坂での資金繰りを困難にしたものと思われ、新しく発行した藩札もまた兌換(だかん)がうまくいかなかった。天保九年(一八三八)八月には、藩財政も窮乏して、藩主の支出を含む諸役所の経営支出を節減しようと図った。そして三度目の産物統制の政策を展開した。天保十年、生蠟会所を設け、喜久田丈助・冨久又作の両人を郡中生蠟方に任命した。翌十一年の十一月には仲津郡大橋村の在郷商人柏木勘七を江戸廻生蠟御会所御用掛とした。
この産物統制については天保十年八月に郡代の原源太左衛門から、次のように通達があった。
①御郡中の米穀ならびに諸産物は残らず、田野浦へ積み送り、毎月六日を商売の日と定め、問屋と相対取引をすること、②荷主が申し合わせて取引することで相場も立つ、③問屋口銭などを一五%引き下げることによって荷主の利益がもたらされる、④値段が引き合わないときは、各自で大坂に送ってもよい、⑤為替銀を希望する者には代金高の七〇パーセントを貸し渡す、以上の内容であった。
前回の仕法よりも緩やかであるが、生蠟方仕法については、不承知の者があって、農民・商人たちからは不評を買っていた。そこで、藩は十一月に、京都郡行事村の豪商玉江彦右衛門(飴屋)と上毛郡八屋の豪商万屋助九郎を諸産物田野浦引請世話方とし、大庄屋中を同御用掛に任じて、集荷促進を図った。今までの国産方仕法の失敗はほとんど藩札の下落にあった。そのため、天保十一年五月に両替準備金一万六〇〇〇両を領内の豪商・豪農から調達して備えた。その上で、領中の金銀銭の使用を厳しく取り締まった。こうして、会所仕法の再編を通達した。
一、領中の産物は何品に限らず、散穀(余剰米)などはもちろん一切を会所に持ち寄ること。
一、荷物は会所へ持ち出した時の相場で取引する。
一、荷主に前貸しはしない。すべて現物取引とする。
一、値段は売り仕切りから諸経費を差し引いて支払う。
一、為替銀借用(代金の内払い)は相場の八割で為替をもってし、決済までは利子をつける。
一、取引はすべて銀札(藩札)で行う。
一、以前から取引している問屋から前貸しを受けている者については代わって当方より前貸しをする。
一、企救郡の産物会所は、小倉室町一丁目に置き、受け持ちは玉江義平(飴屋支配人)と万屋助九郎とする。
一、田川郡・京都郡・仲津郡の産物会所は玉江義平とする。
一、築城郡・上毛郡の産物会所は万屋助九郎とする。
このような会所がどの程度機能したかはよく分からないが、あまり効果は無かったようである。藩側としては、飴屋・万屋の蓄財をあてにしたやり方と理解した方がよさそうである。案の定、藩札は翌十二年の冬には下落し、ついに十三年暮れには底値になって、「御国札両替無之」となった。そして、天保十四年、大庄屋たちが藩の諮問にこたえて、いましばらく年延べするように申し入れたことで、藩は翌弘化二年(一八四五)から三ヵ年の中止を決断した。七月には諸品の売買は勝手次第(自由売買)と通達した。