小倉藩の藩札の発行は、延宝六年(一六七八)が初めてである。その後、幕府の禁令によって途絶えたが、享保十五年(一七三〇)の藩札解禁令によって再発行され、以後幕末まで続いた。
藩札は、文政初年(一八一八)段階では、一匁=銭六〇文の交換相場であったものが、天保二年(一八三一)には一八文にまで下落していた。翌三年には一五文にまで下がった時点で、藩は大坂の平野屋五兵衛(小倉藩の御用達・銀主)の出資を仰いで新藩札を発行した。これを「平野屋札」という。古い藩札が銭一六文の相場に比べ、銭一〇〇文の通用と触れ出された。この平野屋札と正銀貨との両替は、小倉京町一丁目に置かれた平野屋の出店ですることが出来た。しかし、旧藩札は下落したままであったので領民にとっては藩札の下落に対する根本的な解決にはならなかった。この旧藩札の通用も、天保五年三月限りであった。
平野屋札の信用も、天保四年より同五年にかけて、八四、五文に下落した。これは、両替限度額が一〇〇〇貫目であったことによっていた。そこで、同年五月には限度額を超えて応じることにしたため、交換相場は当初の一〇〇文に回復した。ところが、天保七年になって突然、通用停止が触れ出された。この事情ははっきりしないが、平野屋から銀主打ち切りの申し入れによったものであろう。