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天保の新藩札

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そこで、藩は新規に「国札」を用意した。天保八年(一八三七)五月、国産方御用掛商人に国札の両替金の引き受けを依頼した。この要請には、次の商人たちが応じた(第44表参照)。
第44表 天保の新「国札」出金
単位:両
商 人 名金 額
中津屋善六2,050
飴屋彦右衛門1,150
住吉屋音右衛門1,180
米屋利右衛門2,050
伊崎屋善次郎1,560
綿屋茂兵衛1,400
広島屋甚助1,170
芳野屋用助2,100
米屋甚六550
合   計13,210
(永尾正剛「小倉藩の貨幣事情―藩札と私札―」
『北九州市立歴史博物館 研究紀要2 別冊(1994年3月)』)

 出資した商人は、飴屋を除いてほとんどが小倉城下町商人である。さらに、同年十一月になり、この両替金の増資を求められた。この増資には前記の商人のほかに、城下町商人の米屋喜兵衛と宇島の万屋助右衛門・助九郎父子が加わった。
 藩は出資者に対して、抵当として米切手を渡した。つまり、藩は天保九年の年貢米を抵当として、出金させたのであり、出資者はこの米切手をもって諸方に借銀をして決済しようとした。このようにして、調えられた両替準備金により、国札が通用・流通した。この両替準備金によった藩札も、やがて両替金の不足により困難になった。
 天保十一年一月、郡代原源太左衛門は六郡の大庄屋と飴屋・万屋に「国札両替御用」を命じた。ここに、三度両替準備金の増資が図られた。
 当時の藩札の流通高は四〇〇〇貫目であった。次の方法で、この準備金は調えられた。準備金を四等分して、藩、城下町商人、六郡大庄屋、飴屋・万屋が負担するように命じた。この要請に対して、六郡大庄屋は次の献策を藩に対して行った。
 
 一、各郡に両替所を設け、郡方で必要な分は大庄屋の責任で両替する。小倉両替所に持ち出さない。
 一、その代わり、穀類・諸産物の「旅売」を許可してもらいたい。
 
 この二点を基本にして、さらに飴屋・万屋の一ヵ月の両替額を三〇〇貫目にして欲しいと要望した。これに対して藩は、大庄屋の要望を拒否して、出金の名目を変更した。両替準備金ではなく、「御用借の先納金」に変更し、総額も二万五〇〇〇両となった。この内訳は、飴屋に六〇〇〇両、万屋に七〇〇〇両、六郡には一万二〇〇〇両であった。各郡の分担は、企救郡二四〇〇両・田川郡三二四〇両・京都郡一七四〇両・仲津郡二二二〇両・築城郡一三六八両・上毛郡一〇三二両であった。そして、上納後の返済は、秋の年貢収納分のうちから月一歩の利足を加えて元利返済することになった。
 同年五月に至って、今度は「両替本御差支」えという理由で、六郡大庄屋に六〇〇〇両の借り入れの申し入れがあった。そこで大庄屋たちは、両替本の米屋喜兵衛から事情を聞き、六郡で三〇〇〇両を調達することにした。しかし、この大庄屋たちの申し入れは、藩の受け入れるところとならなかった。このため大庄屋たちは、飴屋・万屋および柏木勘七・米屋喜兵衛らと協議した。この結果、飴屋・万屋両商人を両替本とし、城下町商人を除外するよう求め、さらに、藩札出高を三万二〇〇〇両と見積もった上でその負担方法を示して藩側と交渉した。しかし、藩側とは容易に折り合いがつかず、最終的には藩側が提出した妥協案を大庄屋側が受け入れて決着した。
   町方六四〇〇両
   郡方九六〇〇両
    内六〇〇〇両六郡
一五〇〇両玉江(飴屋)彦右衛門
一五〇〇両万屋助九郎
 三〇〇両新屋庄蔵
 三〇〇両柏屋勘七


 このようになり、藩の最初の主張どおり町方が四〇%、郡方は六〇%の割り振りとなったが、六郡の負担は軽減した。軽減分は在町の豪商が負担することになったのである。さらに、新屋・柏屋が加わることで、飴屋・万屋の負担も軽減されたのである。その後、六月になって、仲津郡錦原本陣(現京都郡豊津町)に、郡方・町方の両替掛が参集して会合をもって次の取り決めをし藩側に要求した。
 
  一、二万二〇〇〇両分以外の国札は封印して両替掛に預けて欲しい。
  一、両替日は毎月三斎とする。
  一、諸経費として三〇貫目余を下げ渡して欲しい。
  一、米穀・諸産物の積み出しは「地方取り計らい」とする。
 
 こうして、産物の一手掌握をすることによって両替本銀の確保を図ろうとした。大庄屋たちも両替御用が仰せつけられた。また、この時の大庄屋たちの反応の中には、城下町商人に対する反発があった。その一方で飴屋・万屋たち在郷商人には協力的であった。
 九月になって、藩は年貢収納業務を筋奉行と代官で執り行うように触れ出した。つまり、御蔵番・郡目付・六郡回役などの諸役人の出役を中止した。そして、両役の指示で、手永手代と子供役、さらには村役人が年貢収納の業務の中心的な役割を命じられた。
 以上の趣旨にしたがって、領内の諸産物および散米の売買は玉江義平(飴屋の支配人)・万屋助九郎が担当することになって、産物会所を開設した(前項の郡中米穀ならび諸産物生蠟方会所仕法を参照)。しかし、十一月には大庄屋に命じていた大庄屋の出銀・両替御用を召し上げて、藩の方で両替を行うようにした。